批判対象は「行為」「発言」「表現物」としよう

前のエントリ作家にとっての批判と技術者、研究者にとっての批判の続き。

卒業研究のために配属された学部生にとにかく早く学んで欲しいことは、先生や先輩が行う批判や指導の対象は「あなた」ではなく、あなたの「行為」「発言」「表現物」であるということ。これをできるかぎり早く学び、そして、自分に言い聞かせるようにしないと毎日連打される批判に押しつぶされて、自信喪失して、研究室に来なくなってしまうことになる。

一方で、私自身に言い聞かせていることとしては批判対象は人ではなく、その人の「行為」「発言」「表現物」にするということ。その人自身への批判は多くの場合は良い結果を生むことがない。また、ある人の「行為」「発言」「表現物」を批判するときでもできる限りその人が納得できるように批判を展開することも心がけている。

自分自身と自分自身の行為、発言、表現物を区別する訓練は、ある一定の条件のもとでは、自分がどういう人間で、どういう考えを持っているかに関係なく、ある行為、発言、表現物の作成をしなければならないという体験からスタートすると思う。こんな書き方するとややっこしいけれども、一番典型的な例はディベートをすること、演劇をすること、あるいは学級委員や部活の主将、幹部などのある役割の務めることだと思う。

ある前提の下では自分がどう思っているかに関係なく、ある行為、発言をしなければならないという経験をしていれば、自分自身と自分がした行為、発言、表現物の間に距離があることを実感できる。この自分自身と自分の行為・発言との距離を実感できれば、自分が本当に表したいことを適切に表現するためにどういう行為をすればよいか、どういう発言をすれば良いのか、どういう表現物を作ればよいのかを検討することができる。つまり、自分の行為、発言、表現物を自分の外に置き、客観的な視点で眺められるようになる。

自分自身と自分の行為、発言、表現物との距離が近い学生は、初めての研究進捗報告会(いわゆる研究室のゼミ)で、質問や批判を受けると、自分自身に対して攻撃や非難を受けたと解釈して、怒ったり、へこんだりする。これが、繰り返し「批判対象は行為、発言、表現物であって、あなた自身ではないよ」伝えることによって、質問や批判を受けても大丈夫になっていく。

「プログラムが汚い」といわれたらきれいにする方法を教えてもらい、プログラムをきれいにすれば良いだけであって、「俺って駄目な人間だ」とへこむ必要はない。「君の発言は何をいっているのかさっぱりわからない」といわれたら、どうしてそう思うのかを聞いて自分の伝えたいことが伝わるように言い直せばよい。「俺は駄目人間だ。俺は嫌われている」などと自己嫌悪に陥る必要はない。単に訓練が不足しているだけ。

ぜひ、卒業研究のために配属された学部生のみなさまにおかれましては、先生や先輩が行う批判や指導の対象は「あなた」ではなく、あなたの「行為」「発言」「表現物」であるということ。そして、それは今のあなたの行為、発言や表現物がいまいちなだけで、未来永劫にわたって、あなたの行為、発言、表現物がいまいちであるといっているわけではないということを理解していただきたい。単に訓練不足なんだと。

卒論を指導する先生方におかれましては(というか私自身は)ぜひ、批判対象を人からその人が行う行為、発言、表現物に移動させていただきたく。人にいっても効くやつには効き過ぎますし、効かない奴には全く聞かないということをお忘れなく。

ちょっと、話は変わるけれども自分自身と自分の行為、発言、表現物を分けることがへたくそなのは日本の国語教育のスタイルに関係があると思う。日本語は察する文化なので、その人の行為、発言、表現物をその人と同一視してしまいがち。でも、時と場合によってはそうではないことも教えないと。日本の国語教育の問題に関しては以下のエントリーをどうぞ。

あと、自分自身と自分の行為、発言、表現物を分けることと研究能力の発達段階の関係は以下のエントリーをどうぞ。