「思い出」業務の今日的価値

以下のツイートを見て思いついたことをメモ。ツイートの内容については学校関係者が費やすコストと受けられる利益のバランスによって何を廃止すべきかを検討するべきだと思う。

前提:「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない」

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スマートフォン普及前の「卒業アルバム」の位置づけ

個々人が写真や映像、物理的な記念品をとっておくことが難しかった時代において、学校や学校指定の業者がとりまとめてイベントごとの写真(運動会や演奏会など)、卒業アルバムや卒業DVDを作るのは、児童・生徒や保護者にとって合理的であったと思う。

卒業文集もお金のそれほどかからない、思い出記録媒体と考えられる。

私も20代ぐらいまでは卒業アルバムは不要だとおもっていたが、40代になった今、小学校や中学校のことをさっぱり思い出せないので、思い出すきっかけとして写真が残っているのは悪くないと思っている。卒業文集は、特に見返したことがない。

スマートフォン普及以後の「卒業アルバム」の位置づけ

スマートフォンやデジタルカメラ、デジタルビデオカメラの普及により、個々人が自由なタイミングで自分が興味ある対象に特化した写真や映像を取得することが容易になっている。

このような状況において、学校や学校指定の業者がとりまとめてイベントごとの写真(運動会や演奏会など)、卒業アルバムや卒業DVDを作るのを合理化するのは難しい。ネガティブな理由としては、卒業アルバムや卒業DVDの全体に対して、自分が興味ある対象の記録が残っている割合が少ないというのが挙げられる。ポジティブな理由は、プロによる撮影、編集が入ることによる品質の高さというのがあるだろうけど、個人別の写真集じゃないので、これは訴求点になりづらいと思われる。

私の結論

卒業アルバムは歴史的な役割を終えたのではないかと思う。一方、物理媒体としての卒業アルバムが欲しいという層もいると思うので、学校業務・イベントから切り離したうえで、素材となる写真を当人に提供してもらい、デザイン、編集、製本をプロが行う形のオンデマンド卒業アルバムで、業者は生き残るのが良いのではないかと思う。

卒業文集について

将来の夢とか、未来の自分への手紙みたいな感じで書かされた記憶があるが、あまりにも恥ずかしいので読み返す勇気がない(当時も特になりたい職業がなかったので、適当に野球選手とか書いたきがする)。想定読者を再検討した上で、存続かどうかを検討したらよいと思う。

遠足、林間学校、修学旅行、運動会、文化祭などの学校イベントについて

狙っている教育効果、学びの機会と、社会的な価値とその準備に費やされるコストの両方を検討した上で、廃止かどうかを検討するのが良いと思う。

相対的な貧富の格差が広がっている状況において、学校イベントは今日的には文化資本の差の緩和を図る社会的な機能を持っているかもしれない。学校イベントの各種業務のうち、教員でないとできない作業、教員でなくても大人ならばできる作業を切り分けて、教員でなくてもできる作業について外部委託することで学校イベントを実施できるかもしれない(たとえば、大学生への経済的支援策の一環として、国が各学校へ予算を渡し、各学校が大学経由でアルバイト募集するとか)。