「どう読もうと読者の自由!」ではない気がしてきています。での呼びかけに関して、以前も似たような話見たなと思ったら以下のエントリーを書いていた。
ihayato.書店:「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しように半分賛成。でも、半分反対。「作者が何を伝えたかったのか」をくみ取る必要は全くなく、「その作品や発言そのもの」を読解するべき。その読解の結果が作者の伝えたかったことと一致しなくても、それは読解者の権利としてとやかく言われる必要はない。
でも、読解の結果を他者に伝えるときには、どうしてそのような読解の結果が得られたのかを読解者は説明すべき。そうでなければ、他人の作品の読解という建前で、なんでもかんでも主張できることになってしまう。作品と関係なく、自分の主張を述べるならば、自分の作品でそれを行うべき。他人の作品をダシに自分の主張を展開すべきでない。
上記のエントリーでは、この「他人の作品の読解という建前で、なんでもかんでも主張できることになる」ということについて何も述べてない。だから、半分賛成、半分反対。
もちろん、書き手は読み手の意見をすべて受け入れる必要はなく、たとえ公平な解釈であっても「すみません、私の意図は**で、**さんが読み取ったような意図をこめていませんでした」と説明して良い。でも、公平な解釈ならばそのように読めるということは認めないといけない(そして、次回以降は誤解されないようにがんばればよい)。また、公平な解釈でなければ「それを私の文章から読み取るのは公平ではありません」と指摘すればよい(でも、その主張を相手が受け取ってくれるかどうかは相手による)。
編集者のように生きられますか? コンテンツを殺す唯一の方法。についていうと、タイトルに「編集者のように生きられますか?」という問いがあるので以下の部分がこのエントリーの中心的な話題であり、「みんな、ブロガーの暇な女子大生をちやほやすんなよ!アイツは天狗になったら終わりだ!」という主張は以下の話題へつながる枕であると認識するのは自然だと思う(しかも、わざわざ色変えて強調しているし)。
だから、出版社に勤める編集という仕事の人間は、相手がどんなに大御所でも、必ずまれに「意味もないボツ」を出します。
一方的に図に乗せないためです。
「編集者として生きる=担当している作家を図に載せないために『意味もないボツ』を出さなければならない」という主張していると読むのが自然なので、そりゃみんな反発するのが当然。そんな主観的&つまらない理由で「意味もないボツ」出されるのは誰だって嫌だし、そんなことするのが編集者であると作家に認識されたら編集者だってやってられない。「相手がどんなに大御所でも、より良くなってもらうために必ず『現在以上の高い要求』を出します。」だったら、たぶん、反発されていないと思う。