まだ、卒論の指導をしている。そのときに気づいたことをでメモ。
まとめ
- 誤解なく自分の主張や意見を伝えたいとき
- 事実やデータの列挙だけでなく、それをどう解釈するのか、その事実やデータから何を伝えたいのかも明記しないといけない
- 何らかの都合で主張や意見を述べると自分に不利益が生じるとき
- 事実やデータの列挙のみを行い、その解釈や自分がその事実やデータから何を伝えたいのかについては読者に読み取らせる
大前提:列挙する事実やデータの選択の時点で主張や意見が含まれる
私も未だに下手だし、卒論生は確実にできないことの一つに「なぜ、その事実やデータを読者にお見せしているのか」の説明がある。
世界にはほぼ無限に測定するものが存在し、測定方法も非常に多い。そのような状況にあいて、ある事実やデータを選択し、列挙して読者に見せるというのは非常に偏った行為と考えて良い。今、記載されているAという事実でなく、Bという事実を何故記載しないのか。このような読者の素朴な疑問に執筆者は答えなければならない。
IMRADの形式を持つ論文において、Methodの部分で、実験目的や調査目的を丁寧に説明するのは「なぜ、その事実やデータを読者にお見せしているのか」について納得してもらうため。実験手法や調査手法について説明するのは、その事実やデータが実験目的や説明目的に適したものであるということに納得してもらうため。
執筆者にとって、その事実やデータを読者に見せるということは自明であり、その事実やデータが意味するところは自明であるため、ついつい実験目的や調査目的、事実やデータを同どのように解釈すれば良いのかの説明を忘れてしまう事態になる。
事実やデータの列挙だけではダメなとき
それは、読者に誤解されること無く自分の主張や意見を伝えたいとき。なぜ、そのようなときに事実やデータの列挙だけではダメかといえば、事実やデータの解釈は無数に存在するから。「コップにあなたの大好きな飲み物が半分残っているときに、あなたはその事実をどうとらえるのか?」という有名な話を思い出してもらえれば、同じ事実が人によって解釈が異なるということを実感してもらえると思う。また、実験や調査の生データが他の研究や開発の基礎データとして使えるという事実もぜひ思い出して欲しい。
先にも述べたように、執筆者にとっては自分が列挙した事実やデータが示すことは自明に感じられる。でも、それは、自分がある仮説や主張を述べる材料として事実やデータを選択したから、自明に感じられるだけ。一方で、読者にはそんな前提がないので読者が持っている興味や知識に応じて様々な解釈を試みる。
自分の主張や意見を読者に誤解なく伝えたいとき(伝えなければならないとき)は、必ず事実とデータの解釈を明記すること。さらにいえば、その上で元々の研究目的や開発目的からすると、実験および調査結果はどのように位置づけられるのかも明記しなければいけない。
事実やデータの列挙だけの方が好ましいとき
それは、何らかの都合で主張や意見を述べると不利益が生じるとき。はっきりと意見や主張を述べると角が立つとき。あるいは、直接的な不利益が自分にふりかかるときには、大人の情報発信法の一つとして、事実やデータを列挙し、読者に著者の意見や主張を推測させるという手法が用いられる。
見る人が見れば、著者の意見や主張は丸わかりだけれども、明確には述べていないので一応言い訳が立つ。ただし、大前提にも述べたとおり、その事実やデータを選択したという段階で著者の主観は十分に入っているため、そこを突っつかれる可能性もある。
そこすらも突っつかれないようにするためには、公開済みの情報を集積だけしてみせるという技もある。「いや、〜という用途のために公開情報をまとめただけです。***という解釈ができるとは思いもつきませんでした。」とぼんくらを決め込むことで多少の責任回避ができる。
この方法で責任回避をできるのは、読者に著者の意見や主張を推測させているためなので、誤解が生じる可能性がある。読者を信用できる限り、使わないほうが良い手段なのをお忘れなく。