「考察」を楽しむ方法:自分で考察をくみ上げる、良くできた考察に自分の思いを乗せる

人工物の楽しみ方、特に芸術作品や娯楽作品の楽しみ方の一つに「考察」がある。これは、作品中で明確に語られなかったことや、作者・製作者が伝えたかった思いを作品中に登場するものを証拠として使いながら、その証拠はどのように解釈でき、その解釈の上で展開する主張はどういうものかを検討し、披露する楽しみ方。余談ながら、論文の考察もまったくこれと一緒。(参考:結果と考察の違い)。

重要なのは作品中に登場するもの(セリフ、絵、音楽、演出などなど)から論を展開するという点。これは、外国語で発想するための日本語レッスンでいう「テクストの分析と解釈・批判」のやり方。

一つの作品は確かにある作家が書いたものであり、その作家の生きた時代や環境の影響を大いに受けていますが、読者はそれらに配慮しつつも、作家になりきって作品を読む必要はないのです。読者は読者がその作品を読む「現在」の視座から自分なりに作品を解釈します。ただし、解釈には責任が伴います。その責任を、読者はテキストの中に根拠を見つけて提示するという形で果たすのです。
(外国語で発想するための日本語レッスン, p. 108)

解釈は十人十色。作品中に登場するものをベースとした論の展開ならば、解釈の披露をしあうことによって、作品の楽しみ方のバリエーションを増やすことができる(もちろん、自分にとっては受け入れられない解釈に出会うかもしれないけど、解釈を受け入れるかどうかと解釈が説得力を持つかどうかは別の話なので嫌な解釈は無視すればよい)。

で、その「考察」の披露という楽しみ方について面白いやり取りがあったのでメモ。萌えオタニュース速報:『氷菓』17話感想 「クドリャフカの順番」完結。ほろ苦い話だった・・・のコメント欄より。

5. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 03:03 ID:.xUvQ51U0
本スレの※671みたいに、正解を知りたがる人間っているよな。
「なんとなくわかる」んなら、自分なりに解釈して納得するなり、人に聞いてもらって考察すればいいだけのことなのに。
「説明厨」もそんな感じ。

※700はちゃんと観てないただのアホ。

該当の671のコメントはこれ。

671 風の谷の名無しさん@実況は実況板で 2012/08/13(月) 00:30:18.99 ID:TUoatVA70
俺は言葉で説明できないのが嫌いなんだよね
だから高地さんの気持ちと、まやかが泣いた理由が知りたいな
なんとなくわかるんだけどさ

意図的にかそうでないかは別として、作品中に自由に解釈できる余地があるときに、自由な解釈を行える余地ととるか、作品の欠落・欠陥ととるかは読者次第。で、上の5番目のコメントは、自由な解釈を行える余地ととって楽しもうと推奨している(言い方がキツイけど)。たぶん、作品中の自由に解釈できる余地を欠陥ととる人や原作や作者・製作者のコメントから埋めていく人(「説明厨」が指し示すのはこれだと思う)に反発があるのだと思う。「考察」という楽しみを作品鑑賞のうちに入れているのだと思う。

一方、5番目のコメントへのコメント。

46. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 05:46 ID:5ZAehDnK0
※5
俺も同じく知りたい側
というか、国語の問題みたいな作者の心情云々が嫌いな方
もっとはっきりしてほしいと思う反面、そういうはっきりさせない手法なんだとも思ったり
自分の解らない事置き去りにして読み進んでいいものかなっていう不安だな

こちらの方は、作品中に自由に解釈できる余地があるのが嫌という主張。その裏には国語の嫌な思いがあるっぽい。もっと、国語のトラウマがある方が次のコメント。

48. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 06:01 ID:mB4d8q.O0
>>46
俺の国語嫌いは
感情移入もしていないキャラの心境の考察やらされることで
そうゆう部分の正解が出たことになってるのが嫌。

間違っているかじゃなく、考えることに価値があると思っていたりする。
50. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 06:07 ID:5ZAehDnK0
※48
それでも国語の問題には正解があったりする訳で
納得いかなくても点数付けられて嫌なのは同じだな

ここいらへん、少なくとも以前の国語教育(私の経験ですと20年前ぐらいですが)が悪かった点。上で紹介した「テクストの分析と解釈・批判」を国語の授業ではできていなかった(場合もあった)ということだと思う。ちなみに私の経験はこちら。

私が国語の時間が嫌いになった理由は、小学校のとき「この作品を読んであなたはどういう情景を思い浮かべますか?」という先生の質問に対し、私が、「私は***という情景を思い浮かべます。」と回答したら、「うん、でも、正解はXXXXXという情景なんだよ。」と先生に言われたからである。私の考えを聞かれたから回答したのに、それを他人である先生が、しかも根拠なく不正解であると宣言した経験が「国語というのはどうしようもない科目だ」と私に思わせた。
私の外国語で発想するための日本語レッスンの読書感想より)

で、国語についてのフォロー。

84. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 11:46 ID:2dcNQVnj0
国語の問題云々言ってる奴。
中にはトンチキな問題作るダメな奴もいるけど、現代国語の問題は基本的に文章中に明示されていることで回答できるようになっているぞ。
感情移入だとか共感はむしろ邪魔な要素。
それが苦手なのは、むしろお前が感情移入しようとしているからじゃないのか?

で、次が面白い。

85. Posted by オタクな名無しさん   2012年08月13日 11:48 ID:2dcNQVnj0
だから、答えの無い問題に対する解答は、お前の胸の中のもやもやが正解でもいいんじゃないかと。

これはこれで、素敵な意見なのだけど、最初の671のコメントへの回答にはならない。再び671のコメント。

671 風の谷の名無しさん@実況は実況板で 2012/08/13(月) 00:30:18.99 ID:TUoatVA70
俺は言葉で説明できないのが嫌いなんだよね
だから高地さんの気持ちと、まやかが泣いた理由が知りたいな
なんとなくわかるんだけどさ

「言葉で説明出来ない」のを放っておくことが嫌な人にとって「胸の中のもやもやが正解」は回答にならない。胸の中のもやもやを言葉にしてほしいという要望がどうしてもある。5番のコメントの人は「胸の中のもやもやを言語化するのも、楽しみの一つ」と推奨し、85番のコメントの人は「もやもやはそのままで良い」と推奨する。でも、もやもやを言語化できない人がいる。このもやもやが言語化できない人にとっても、感想サイトは重要なのだと思う。もっと言うと、いろんなことについて思ったことを垂れ流す個人ブログの存在意義もこの部分にあるように思う。

最近読んだ「考察」「感想=解釈の披露」としてうまいなぁと思ったのは、 科学と生活のイーハトーヴ:『おおかみこどもの雨と雪』を観てきた(ネタバレあり)。作品中のどのシーンをどのように解釈し、その結果どういう考えや感想を得たのかがわかりやすく書かれている。で、このエントリーのはてなブックマークコメントに以下のものがあった。

  • 私は数々のこの作品のレビューを読んで、やっとホッとする書き手を見つけられた。そんな気がします。
  • ここのところ続けて複数のレビューを読む機会を持ったけれど、これがいちばん納得できる。間違える母親をどう見るか、かあ。/でもやっぱり母親の態度について、監督が価値中立に描いたとは思えないのだよなあ。

「考察」や「感想」サイトの役割として、他の人の解釈を知り、あるいは、他の人の解釈を通して自分の解釈をより深めて、作品をより楽しむというものもあると思うのだけど、もやもやして言語化できない状態で、自分にとって適切な「考察」「感想」を見つけ、自分のもやもやを言語化する(あるいは言語化する最初の一歩とする)というのもあるのだと思う。

なお、自分の中のもやもやを言語化できない人が自分の中のもやもやを言語化できる人に劣るということではないのにご注意。訓練である程度できるようにはなるけど、興味の有無や知識の有無、体調・精神状態、状況によって、自分の中のもやもやを言語化できない(あるいはわざとしない)ことなんてよくあること。

ここまで書いてきて、なんであのコメントのやり取りを自分が面白いと思ったのかがやっと理解できた。感想や考察サイトは、感想を言いたい、考察したいという人のためだけのものでなはなく、そこに蓄積された感想や考察を通して、自分の中のもやもやを言語化したいという人にも求められている。「よくぞ言ってくれた!」「私の気持ちを代弁してくれている!」と言うのは、権力勾配があるために口にできなかったことを代弁してくれたという評価だけでなく、言語化できなかったことを言語化してくれたという感謝の気持ちからもあり得るのだと思う。

上記の事から考えると、現金化できるかどうかは別として、個人が自分の考えを披露する媒体(ブログ、マイクロブログ、SNS)の価値はこれからもあるな。