学生のときは、「根回しをする」という事柄を汚らしいことと思って、自分が社会人になったら正々堂々と公明正大に、直球勝負でやろうと思っていた。けれども、いざ、組織の人間になってみるとこの「根回しをする」の必要性がわかってしまい立場が変わらないとわからないことがあるものだなぁと実感している。
組織において「根回しをする」必要があるのは、基本的に組織において物事の通すことはフェアでないから。フェアでないというのは、組織が何かを行なうときには、0から必要性や重要性を組み立ててそれを行なえるわけではない。既に社会的にその組織に対して覆すのが圧倒的に難しい前提条件がつけられているということ。
たとえば、国民の税金で運営されている組織の場合には前提条件として「公平」がつけられている。究極的にこの行為はみんなのためになるんですよと一生懸命説明したとしても、「公平でない」というクレームがひとつでもつけばアウト。もう反論できないというか反論は許されない。なぜならば、それはその組織につけられている前提条件だから。
「根回しをする」という行為は、この前提条件がつけられている組織において、前提条件に反することが起こったときに被害を最小限にするために行なわれることであるのだなと思った。あいまいに、見えなかったことにして水面下で行い、いざ、そういう反論が出たときに故意ではなく、過失として被害を最小限にする。良いと思ってやったことでも、それが万人にとって良いということはあり得ず、不満に思った人が前提条件を持ち出してしまったら、理非は問わず罰を受けるしかない。
万人が平等で、意見を戦わせて全てを決めるという条件が満たされているならば、正々堂々にやりあえるんだけど。
で、この本来の根回しの仕組みが何にでも利用されちゃって悪いことが起こったときに責任の所在がはっきりせず、いろいろな改良・改善ができなくなっちゃうという弊害。コインには必ずウラとオモテがある。良いだけの事柄というのは世の中に存在しないという好例。