もやもやした感じ

上記のエントリに対するコメントを読んで非常にもやもやしています。

差別というのは、個々人の能力や性格ではなく、その個人が属している環境やグループ、あるいは、その個人が持っている先天的特長によって、個人を判断することにその本質があると思います。

文理の壁、社会における男女格差など理系白書でHOTな話題としてとりあげられているものも、本質的にはその人が属する環境やグループなどではなく、その人個人を見て評価できる社会を作らなければならないという観点から問題であるのだと思います。であるのに、文理の壁をけしからん。社会で男女は平等であるほうがよいと考える人々が、「メディアの記者で影響力があるのだから云々」というのは、なんだかなぁというもやもやした気分になってしまいます。

ブログという個人が気軽に情報発信を行える道具において、著者の背景や属している組織を著者の言説を判断するための基準として利用するならともかく、著者の属している組織と著者を同一視して、著者の発言の責任を属している組織に帰する。もしくは、著者の属している組織の社会的責任を著者にかぶせるというのは、ブログという情報発信ツールを真綿で首を絞めるように殺していく
行動だと思います。

日本では専門家がブログで発言しないといわれます。自分の発言に対する批判ならば、受け止めるにせよ、無視するにせよ、へこむにせよ、自分の問題として処理できますが、それを自分の属する組織に投げつけられるのならば、怖くて発言できません。可能性が高いというだけで十分にブログで発言を行う意欲はそがれます。

科学は、間違いの指摘、新事実による旧常識の否定という形で発展してきました。今、この時点で正しいと信じていることも、一夜明けると間違いに変わっているのが科学の世界です。ですから、科学に携わる人間は、自分が間違えるということ。間違えを受け入れなければ前進はないことを知っています。ですから、間違えたときには考えを訂正すればよく、なぜ自分が間違えたのかを分析し公開できればよりよいことであると知っています。

しかし、間違えたということ自体を非難され責任をとらされるという環境においては上記のような考えは成り立たなくなります。守りに入り、不正確なことはしゃべらず沈黙する。それしか、身の処し方がありません。いろいろなこと。専門家の生の発言を知りたければ間違いをある程度許さなければなりません。そして、間違いを訂正するチャンスを与えなければなりません。

話戻ってどうして、理系白書のコメントをみて、私はもやもやしたものを感じるのか?それは、コメントを寄せている人のうち少なくない人が理系白書の著者である元村さんに完璧さを求めているからです。これは、回りまわって、自分自身が実名でブログを運営したとき、もしくは、外部に情報を発信したときに完璧を求められる姿を連想させられます。

発見や新しい方法は、試行錯誤からしか生まれないのに、失敗や間違いをしたら即アウト。やってみてだめだったことからフィードバックを得たいのに、だめだったら二回目はない。だったら、動かず、現状を維持し、黙っていたいです。面に立ったのだから
血反吐はいても自己責任。じゃあ、立ち上がりたくないですね。

専門家のブログが少ないのは、著者個人の発言を評価するのではなく、著者と著者の属する組織を同一視して発言を評価する風潮があるからです。それは、本質的に日本における様々な差別と根っこを同じにするものであると思います。また、間違いを正すのを許さず、間違った時点で死刑宣告を下すという風潮も、専門家の発言を殺します。社会に出た瞬間、間違いをまったく許さないのであれば、人はどこで成長して、自分を変えていくのでしょう。間違えたら自分が死ぬか。間違えたと判定した人々自体を消して、間違えたという事実自体を消すか。

まあ、このように考えがまとまらないほど、私は今、もやもやしているのです。

あの3つのエントリーは、多くの人がマスコミに不信感をいだくような影響力があるのでしょうか?あのエントリーを読んだ100万人は、誤った認識をするのでしょうか?記者のプライベートな発言は、多くの人に知られた瞬間、公的な発言とみなされるのでしょうか?ブログに意見を書くときには、その意見の根拠を示すデータを社会調査によって用意し、統計的手法を用いて解析しなければ
ならないのでしょうか?間違っていたらデータを示してここが間違っている、あるいはこういう見方があるよと示すだけではだめなのでしょうか?組織と個人、公的発言と私的発言を区別し扱うことは私たちには無理なことなのでしょうか?