前置詞+疑問代名詞で始まる疑問文

"For which values of n does G have an eulerian trail?" というような前置詞+疑問代名詞で始まる疑問文の文法的理由。

  • 元の文は "G has an eulerian trail for 何とかの値."
  • どの値について成り立つのか知りたい。 "Which values of n does G have an eulerian trail for?"
  • フォーマルな書き方(教科書や論文)だと前置詞を文末に残すのは良くないので前置詞を疑問代名詞の前へ。 "For which values of n does G have an eulerian trail?"
  • 前置詞+疑問代名詞なら、疑問副詞にすべきでは? "Why (for which) values of n does G have an eulerian trail?" はおかしいので "For which"のまま。

参考

何の役に立つのかわからないことを学ぶのは誰でも嫌であること

数学の大統一に挑むも数式が増えてきたあたりで積読になっている私だけど、こういう話は大変面白く興味深い。
wired.jp

で、上記のエントリーのはてなブックマークコメントで紹介されている件のワークショップの参加者の方の感想&その翻訳が面白かった。
mathbabe.org

上のエントリーを日本語訳してくれたのが以下のエントリー。
github.com


日本語訳の方から勇気づけられるなぁと思った部分を抜粋。ここの用語が何を示すのかは別(私もわかっていない)として、以下の述べられていることは自分が時間を費やして学ぼうとすることに意味がなさそうなのであれば、学びに時間を費やすのは嫌だと数学者でさえ思うという点。

時には IUT より以前に発表された望月の他の論文、一般の数学者にとっては不慣れな内容(Frobenioid や anabeliod)に関する論文への参照がなされ、数多くの新しい概念を理解する必要に迫られる。この結果として無限退行するかのような印象が生み出され、これもまた意欲を削ぐ効果をもたらした。しばしば望月の議論は一般論から具体論へ進むという形をとるからである(論理としてはよいだろうが、新しい概念を学ぶ際には必ずしもよい順序とは言えない)。例えば、もし望月の理論における Frobenioid(この単語は「Frobenius」と「monoid」の合成語である)という重要な概念を理解しようとしたとき、この概念を構築しようとするモチベーションが、彼の楕円曲線に関する Hodge-Arakelov 理論の研究から来ていることがわかる。しかし、この結果として 2 つの(数学的なというよりは)心理的な障害にぶつかる:

  1. Hodge-Arakelov 理論は最終的には使われない(数論的な 小平-Spencer 理論を構築することが、関数体の場合に触発された望月の当初の狙いであったが、このアプローチは失敗した)。最終的には使われないとしたら、ただモチベーションを理解するためだけに、どれだけの時間を非自明な理論の学習に費すべきなのだろうか?(もし費すとしたら、だが)
  2. Frobenioid の理論に関するほとんどの部分(望月の、IUT より以前に発表された 2 つの論文の内容)も、最終的には使われない(特殊例のみで十分である)。しかし、初めて学ぼうとした読者は気付かないかもしれず、全ての理論を理解しなければならないと(誤って)思い込むかもしれない。望月の Web ページに、究極的にはこの理論のほとんどが使われないことを述べている短い注釈があるが、独学中の数学者は気付かないかもしれない。たとえこの注釈を発見し、これらの論文のうち最終的に使われる重要な特殊例を取り扱った部分のみを読もうとしても、膨大な記号・用語や、前の方で述べられている結果が使用されているのを目のあたりにすることになる。こうして、「特殊例を理解するためだけでも、結局のところ最も一般的な議論を理解するために最初から読まなければならないのではないか」という恐怖を(間違ってはいるものの)感じ、結局は意欲を失ってしまうかもしれない。

これは Grothendieck のエタール・コホモロジーを学ぶときのことを思い起こさせる。近年では、この理論を一から直接的かつ(多かれ少なかれ)効率的なやりかたで構築し、重要な定理を証明していくようなよい本がいくつかある。数分冊に渡る SGA4 における Grothendieck の定式化では、非常に抽象的なトポスの一般理論を構築するために最初の何百ページもが割かれている。これは後の様々な一般化のための基礎となることを目指して書かれていた(そして後に実際に一般化された)。このような非常な一般性はしかし、エタール・コホモロジーのみを理解しようとするためには(任意の圏を理解するためにさえも)完全に不必要である。

ちなみに上記の感想に関係しそうなことが望月さんの進捗報告では書いてある。

話戻って、「5. 聴衆のフラストレーション」の部分は、自分が授業するときや発表するときは気を付けたいポイント。何かの定義を覚えておくということも認知的コストの1つなので、意味なくコストを強いられると聴衆の意欲がそがれてしまう。何のために、その定義を覚えておかなければならないのかを適宜示しながら説明していかないといけない。

話題のSession 22味わい深い過去放送

topisyuさんに言及されたというはてなメッセージが届いて、なにごとかと思ったら、はてなでは「ちきりん」じゃない方のちきでおなじみ荻上ちきさんの話だった。
topisyu.hatenablog.com


なんの話かは以下のとおり。

7/6のSession 22の冒頭で本人からの説明があった(らしい。録音しているけど生で聞き逃した。)TBSラジオクラウドで配信中なので聞きたい人はすぐ聞ける。
www.tbsradio.jp
(TBSラジオクラウドはこちら

私は、これでSession 22がつまらなくならなければ、よそさまの家の話なので別になんの感想もない。でも、評論家・コメンテーター・活動支援家としての荻上さんにしてみるとそんなに悪くない話かなと思っている。というのは荻上さんに対して「不倫していたお前が言うな!」と正々堂々と言い返せるようになったから。公明正大で正論ぶつけてくる相手ほどいやなものはない。「こいつは偉そうなこと言っていても、しょせん…」という風に心に逃げ道がある方が、案外、相手の言っていることを受け取りやすいのではというのが私の考え(だから、私は研究室配属された学生と夏合宿に行ったり、お酒飲みに行ったり、お昼ごはん一緒に食べたりしている)。大学教員としては、教えている内容によっては微妙かも。

一方で、topisyuさんの以下の記述をみて、私も男性の浮気に甘いのかなとは思う。

三遊亭円楽さんは炎上を回避できていましたよね。あれは本人のポジション、会見の上手さ、芸人であることと年齢的なものが関係あるんだろうけど、日本社会が男性の浮気には甘いというのもあると思う。
お願いだから既婚者は離婚してから好きな人と付き合って! - 斗比主閲子の姑日記より)

で、この件を知って、ここ数週間の過去の放送を振り返ると味わい深いなぁと思う回があったのでご紹介。TBSラジオクラウドにアカウントつくると聞くことできる。一つ目はこちら。枡野さんの新刊タイトル『愛のことはもう仕方ない』のタイトルの由来の部分をお聞きください。もちろん、枡野さんのキャラも最高に面白い。歌人っぽい。
www.tbsradio.jp

次はこちら。豊崎由美さんが紹介するおすすめ本の最後の方に対するちきりんの発言が味わい深い。紹介されている本も「文学作品は苦手だけどよんでみたいなぁ。」と思わされる紹介。
www.tbsradio.jp

そんじゃねー。

大学教員と高校生~大学生のお子さんを持つ方はぜひ聴こう

www.tbsradio.jp

未知のことに取り組むときにこそ自分の中の価値判断基準が必要だと思う

id:chijanさんにIDコールされたので。

chijan.hatenablog.jp

は、以下のエントリーへの疑問というか感想。
next49.hatenadiary.jp

自分の基準が他人に受け入れられないのは普通

データ可視化の研究をしていました。しかしそこでは何を以て「可視」化したと言えるのかが不明です。私が可視化したと思ってもボスからすれば論外ということはしばしばありました。見えやすさについては定量的な評価関数がないのです。私なりに可視化の基準はありました。そういう意味では価値の判断基準は自己の内にあったはずです。しかし可視化であるがゆえ人に見せるものである以上、外に判断基準がないといけなかった。何を以て可視化とするのか自分の中の基準が壊れかかっていた。自己の判断ができない状況が、きっと楽しくなかったのだろうと思います。

一方、今の研究は応用数学。とても楽しく研究しています。何しろ数学を使うので、数学的に正しくなければ間違い、正しければ正しいと極めて明確に判断できるのです。これは楽しい。誰も解いていない問題なので正解も模範解答も当然不明。しかし数学の道を外れれば誤りであるとわかる。先行研究と比べて自分の方が有用な結果であればマイルストーン達成。次の石へ向かう。

自分の中の基準があり、それに基づいて自分なりの可視化を主張していたのですから、私が上のエントリーで嘆いていたケースとは異なっていると思います。他者が納得するための基準の設定のところに問題があったのだと思います。自分の基準に基づいて何かするのと、その何かしたことが他人に受け入れられるかどうかは別の話だと思います。ですので、私が件のエントリーで嘆いていた話の次のステップのところで苦しまれたのだと思います。

精神的背骨があるのか?

以下の行から始まる話は、結局「精神的背骨」という比喩に相当するものがあるのかという話ですが、件のエントリーでは自分で咀嚼した価値判断基準を「精神的背骨」と言っています。エントリー前半のエピソードと合わせると、id:chijanさんは「みんなが納得する評価基準」=「件のエントリーで言っている『自分の中にある価値の判断基準』=『精神的背骨』」という解釈をされているので、私の主張にひっかかりを覚えているのではないかと思います。

さて、ここまで書いて一つ疑問が生じました。数学を価値判断の基準とするのは、自分の精神の背骨になるのだろうか、と。

おわりに

外に正解がある事柄についてはそれを使って判断をくだせばよいので、知らないこと、正解がわからないことに取り組むときこそ自分の中の価値判断基準が必要だと思っています。

プログラミングコンテストプラットフォームとは目の付け所が鴻海

もう、「目の付け所がシャープ」言っても通じない時代が。とまれ。AtCoderというサービスを初めて知ったけど、素晴らしい試みだと思う。

以前、こんなことをつぶやいた。





最近のベンチャー系の会社での採用時にはGitHubでこれまでつくったものを見せてもらうというのもあるらしい(以前、卒業生に聞いた)。情報技術者の技術を可視化する一側面として、プログラミングコンテストでの活動などは役に立つと思う。ACM-ICPCとかでも技術系の企業は協賛しているし