それぞれが考えるそれぞれの「精神的背骨」

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないはたくさんの人に読んできたいただき、コメントやトラックバックもたくさんいただいた。たいへん、嬉しい(ただ、批判系のコメントは咀嚼するのに時間がかかった)。

あのエントリーがたくさんのかたに読んでいただけたのは以下の理由だと思う。

  • 私が読み手である「君」に語りかける形式の手紙形式である
  • 私が断定的に「君」を批判する形式である
  • 卒業研究の話だった
  • 表現者」という分かったような分からんような言葉を使っている
  • 「精神的背骨」というなんかキャッチーな言葉を使っている

特に「表現者」+「精神的背骨」というのは、読み手の想像力を刺激したようで、たくさんの解釈、たくさんの意見をいただけた。また、私が卒論の話と絡めて「表現者」+「精神的背骨」という言葉を使ったため、「研究」と「精神的背骨」という組み合わせについてもさまざまな解釈・意見をいただけた。

なるほどと思う意見から、そういう解釈があるの?と思う意見、全然私のエントリーの内容読んで無いじゃんという意見までたくさんがあったがたくさん学べた。今後の参考のためにみなさんが考えるそれぞれの「精神的背骨」の解釈をまとめてみたいと思う。

精神的背骨と今回の彼は関係ない!

いきなり、精神的背骨とは関係ない話になっているけれども、結構多くいただいたのがこの意見。

「精神的な背骨が育っていないから」ではなくて、自分の意見を言わないのはそもそも研究の目的が理解できてないから。間違うのがわかってて、それを論破されるのがもうほぼ確実に予想出来てるのに、わざわざ自分からフルボッコされるようなこと言うわけないじゃん。もう黙ってるしかないじゃん。

一般論として,先生は研究に正解はないと言いながら不正解だけはきっちり指摘してくるから,思いつく限りのことをすべてボコボコにされる学生は嫌になるんだよね.

立場や能力の非対称性を考えると「正解はないけど、君の正しいと思うことを主張して?」という要求のひどさに対して慎重であるべきだと思います。公開の場で人格非難を行ってますし、甘えているのはid:next49さんでは?

精神的背骨=自分の中の価値判断基準

私の定義。背骨という言葉を使ったのは、後知恵で考えてみると自分の中にあるというところから背骨ということを連想したのだと思う。なので、背骨に相反するものとして甲羅を自分の外に価値判断基準があることの比喩とした。

このエントリーの方の精神的背骨の解釈はほぼ私と同じ。

自分なりの価値観を自分の中に持てない人が気の毒だという話です。

精神的背骨=自分の中の価値判断基準というのは私と同じだけど、表現のとらえ方が違う。私は「表現=自分の主張(自分自身と切り離し可能)」、ingotさんは「表現=自分自身(自分自身と切り離し不可)」。

元記事の、〜引用省略〜 にあるような、「精神的な背骨」が、それこそ自分の中に育ってたからだと自分では思います。

ただ、卒論と小説を分節した上での捉え方も、発声練習の書き手とはちょっと違って、僕は、小説は僕自身だからこそ、変更しようがないし、腹がくくれる、と思った。腹がくくれたからこそ、時間をつぎこむこともできたように思う。

対して、卒論の方は、非常にダブルバインド的というか、一方では、論文としての体裁、「形式面」が求められる以上、そこには「書き換え可能性」が暗黙裡にかつ厳然と想定されているわけですよね。にも関わらず、「精神的な背骨」とのリンクも求められる。

kno_apm_kgdさんのご意見に全面的に賛成。感性という誰からも否定されない(自分の感性を理解してもらえるかどうかは別の話)ところからコミュニケーションをとる経験をたくさん積んだら、私が困ったようなことを大学で考える必要がなくなるように思う。

作品から感じられるものは、多種多様です。その作品が持つパワーや、味わい。歴史的な文脈から、何か崇高なものを感じるかもしれません。あるいは、昨日サンマを食べたから、作品のサンマに興味が行くのかもしれない。それらは、私たち一人一人が持つ経験によって育まれた「感性」に左右されるものです。感性とは、どうしようもなく、他のあり様ではなく「そう」体感してしまう、ということです。これが即ち背骨ということではないでしょうか?そういった背骨も、経験と、自身の背骨を確認し、確信/修正していくプロセスを必要としていて、美術教育はその一環になり得る。

tea-kettleさん、他の部分は私と意見が異なるが背骨の定義はほぼ同じ。自分の中にあることが背骨の条件。

今は、価値判断基準を個人で持つことを否定する時代。

正確に言うと、「価値判断基準を極大集団で共有しているということに幻想を持つことで自我を守る」ことが当たり前になっている時代。

その当たり前に依って自我を保っている人は、無意識のうちに「個人として価値判断基準を持つ」ことを恐れ、またそういうことが出来ている人に対してコンプレックスを持っている。

なので「背骨を持て」と言われても、反射的に、「それが出来れば最初から苦労はない」などに代表されるテンプレートの言葉で反撃してしまう。

fistoさんの出していらっしゃる例はまさに私の悩みそのもの。

例えば問題の間違いを指摘したとき、「でも〜」と相手から反論が返ってくることがある。そういうとき、相手がどんな間違った理解しているのかを確認するために「どうしてそうなるのか」を聞き返す。当然の流れだ。

そして間違った理解を訂正する(もちろん私が間違っていることもある)。そうやって勉強するのだ。

しかし、この問い掛けに答えられない子が少なからずいる。ここで言う「価値の判断基準が自分の外にある人間」だ。「どうしてそう思うのか」が外に出せない。

私は「価値判断基準=自分自身」とは思いませんが、たぶん、cielbleuさんの精神的背骨の定義も私と同じかと。

エリクソンの「ライフサイクル論」(参照:エリクソンの発達理論)を見てると、青年期以降、世間体を気にして物事を選ぶような生き方をし続けると、「自分が無い=孤独になる」可能性が示唆されております。先述の表現者は、何もクリエイターだけの話じゃないですものね。たとえば自分に無い人は不安になって常に相手の愛を疑うでしょう。価値観が相手にあるのですから。「愛してるなら、私も死ぬからあなたも死んで!」と言う奴は自分がありそうに見えて、実はこのタイプじゃないかと。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないの主旨は、

  • 自分自身の判断基準を持て
  • その判断基準に従って表現せよ

です。

「他人の評価」 が取るに足らないモノだとは思っていない。
なにより正確な評価をしてもらえること自体に感謝だ。
しかしそればかりでは自主性が無いガラスケース内のサンプルと一緒だ。
自分の中に価値基準を見いだすことで自走式の人生が確立できる。

精神的背骨=価値判断基準

私の定義との違いは「自分の中の」がついているかどうか。私は自分で咀嚼した価値判断基準以外を背骨とは思わないのですが、witchmakersさんはもう少し広くとらえている。まあ、「自分で咀嚼する」というのもとってもあいまいな表現なのでもっと適切な修飾語が必要なのかも。

こういうのは卒業研究のようなことに限らず、「自信がないことについては口を塞ぐ。判断を他者の責任において行なう。」というその人にとっては普遍的できわめて合理的な行動パターンなのだと私は思っている。そうすることがその人の「精神の背骨」なのである。

精神的背骨=他者に全く影響されない強い自己

この解釈はかなり多い。このように解釈した上で、他者を気にすることも必要だというコメントも結構いただいた。

nakamurabashiさんの表現の定義は「この世界にいるだれとも共有されなかった魂の部分があげている悲鳴」、精神的背骨の定義は「非情で不合理な世界に立ち向かう自分の杖となるもの」ですので、私の定義とかなり違う。すっごくわかるんだけれども、これは今の大学のシステム、私の覚悟からすると無理。無理だから何もしないとしてしまうと、社会が要請している人材を社会に供給できないというジレンマ。本当にここいらへんの話は難しい。

繰り返しますが、この文章を書いた人が、本当に自分の背骨を持っている人ならば、このことは理屈以前の、どうにもならない実感をもって理解できるはずです。自分の背骨を持って生きることは凄惨なことである。素手で、この世界というわけのわからない化け物と格闘するような傷だらけの営為なのだけれど、それにもかかわらず、自分の背骨を持って、地球という、世界という、クソ重たい重力を持つものから直立し、はるか遠くを見渡すことはすばらしいことであると断言できる人だけが、他人にそれを要求できると思ってます。

的外れで独りよがりな自画自賛とは違う、有意な価値判断を自分で自分に下すなど可能なのか?

ニコニコ動画では現在「歪み無い兄貴」が人気で、ちょっと前までは「人として軸がぶれている」が人気であった。
このことは、「自分は精神的背骨ができていない」と感じている人が多いということかと思う。

例えば、この文面は芸術家にとって半分正しくない。芸術にとっては、作品そのものやそれを生み出すプロセスに対して、「精神的な背骨」が通ってないといけない。しかし一方で、芸術にとって自分の外「だけ」が唯一絶対の価値判断基準である。どれだけ背骨が通っていようが、聴衆に評価されない芸術には何の価値もない。聴衆がどれだけ間違っていて、芸術家がどれだけ正しかろうが、だ。

yo_from-satsukiさんの認識だと「ブレない自分」というのが定義に思えるのでこのくくりに入れるのはちょっと違うけど、傾向(他者に影響されない)というものから点からすると同じかなと思い。ここに。

はてさて、そのいろいろな人からもらえるであろう感想ですが、

これに、左右されるとちょっと危ないと思うんですよ。

「背骨」とは何ぞや?

それは、自分の中の確固たる価値基準。

それは、揺るぎないものでなくてはならない。

世界と対峙したときに、世界が襲いかかってきたときに、それに逆らって立っていられるだけの強固さを持っていなければならない。

王様タイプは一目置かれたいという欲求が強い。そのタイプが研究者になった場合、派手な業績(言い換えると間違いでない・認められる主張)などは一目置かれることに関してはプラスに働き、逆に間違いであることを認めるというのはマイナスに働きます。周りの研究者にとってはどうでもいいことかもしれませんが、一目置かれるための「彼」のステータスをすべて台無しにされるわけですから、相当にぶっとい背骨がないと耐えられないかと(この「背骨」って言葉、なんかひっかるんすよね。↑の人は背骨は後天的に作られるものって言ってるけど、僕は先天的なものもかなり大きいと思う。けれども、後天的な要素も確実にあると思うから「背骨」という表現を使います)。

そうですね。Man of Common Sence,常識の人? この場合、その人の中心とでも言うべき、真ん中、であり、まわりが何をいおうが関係ない。だからこそ、歴史に名を残したわけですしね。でも、これは、欧米流。日本では、バリ島では、表現とは、人と人との間にうまく入り込んで、少しずれして声を出すこと。

精神的背骨=問題意識

私のエントリーを研究の側面から発展させた解釈。

現実の出来事をそうした「使える知識」として産みなおすには、研究のこういう泥臭い格闘がどうしても必要なのです。その意味では、研究の仕事というのは「知識の一次産業」なのでしょうね。
どうすればこんなしんどい仕事を続けられるか、といえば、まずそのフィールドに対する「問題意識」が必要になります。
こちらの記事で言うところの「背骨」とは、それを指すのではないかと私は解釈しています。
問題意識とは、なにを明らかにしたいのか、またはなにを解決したいのか、ということ。

mbrさんの解釈はsivadさんの解釈と近いように思う。表現という言葉も論文と小説を一緒にするのは乱暴ではとのこと。

  • 発声さんはどうもB4とかM2に求めてるレベルが高すぎる気がする。生命系ならあのレベルをクリアできるのって博士くらいにならないと無理なんじゃね?とか思うけど、何せ分野違うからあれだわ、あれ(謎)
  • あくまで自己の内面を表現(=本当の自己表現)する小説と、手を動かして得られた(基本的には)変えようのないデータの解釈(=部分的、限定的な自己表現)を延々書きまくる論文を一緒くたに議論しないでほしい感じがかなり。

siuyeさんも研究の観点から定義。

とりあえず研究の話をしているとおもうので,研究に限定した話を考える.まず価値観と言う背骨は,生まれながら持っているものではなく,経験を通して構築していくものであるのだと思うし,たぶん next49さんもそう思っておられる.

正解・不正解のほかに,妥当解や,傷のある解というのもあるはずです.いくつかは想定でき,いくつかは実際に表現してはじめて,本人または他人が,その正否あるいは妥当性を検証できるものです.卒業研究は,どこに妥当解を置き,そこを目指して卒業論文完成までどこまで努力できる/したかを,本人と指導教員が確認する作業です.また卒論だけでなく査読付き学術論文でも,傷のない論文というのは皆無で,見つけた(あるいはそこに明記されている)傷から,新たな展開が得られるということも,研究者なら誰しも体感しているはずです.

表現するためには、ある程度しっかりした自分の判断基準=精神的な背骨を持つことが大切であるという考えにはもちろん同意します。そして、「研究には正解とか不正解とかない....」ということもおそらく真であるでしょうが、正解でも不正解でもない状態をそのまま許容するというのは、ある種のせっかちなひとにはなかなか難しいものです。さらに「正解でも不正解でもない状態を」受入れつつ、自分の主張を述べるというのも、かなりの高等技術です。

精神的背骨=実存レベルでわが身の問題として感じられる問題意識

問題意識という言葉であるけど上の研究における問題意識とは違うように思うので分ける。ただ、私には「実存レベルで」という修飾語がどういう意味を表すのかわからないのでこの定義の意味はちょっとわからない。

この人が「精神的な背骨」と読んでいるものは、俺の解釈で言い換えるなら、たぶん実存レベルでわが身の問題として感じられる問題意識(別に本当に一人称の問題である必要はない)のことだろう。

精神的背骨=その分野の一人前が持つべき技能・思考方法・知識

orangestarさんの認識はsivadさんの研究者の話と似ているがもう少し一般化されたもの。

まあ、最初からポーンって飛んでいける人間もいるけれどもそうではなくて、昔から、いっぱしの職人に(自分で判断して自分でものを作れる業務、この場合、いわく表現者)になるためには10年くらいかかるって言われてる、製造業でも、料理でも。

精神的背骨=私(next49)が教えたいことについての言い換え

斬新。この発想は大学教員側からは許容しにくいのだけれども、このように丁寧に書いていただけるとありがたい。

背骨とか知的能力って言葉の使い方は、僕の解釈では「この人たちが教えたいだけのこと」だから、誰にとっても大事そうに見せているようで、好きじゃないけども。

精神的背骨=配置のストックをどのくらいもっているか

reponさんの定義は私にはよく分からない。

エントリでは「精神的な背骨」という謎めいた言葉を使っているけれど、それは、ぶっちゃけて言えば配置のストックをどのくらいもっているか、ということに尽きます。

先生が言いたいのは、学生さんが見るべきは、学生さん自身の内面などではなく、作品それ自体だ、というそれだけのことです。

しかし、すでに非対称な関係に支配されているために、先生が何を言っても生徒は自分の内面をのぞき込んで答えを見つけ出そうとしてしまいます。

作品に「美」を与えるのは、鑑賞者です。オブジェクトとその配置から、鑑賞者が美を読み解くのです。それだけの話なんです。

余談:なぜ、背骨が好ましく、甲羅が好ましくないのか

元記事を読んでいちばん気になったのは、その説教の核心部分ではなくて「精神的な背骨」という比喩表現だった。「精神的な背骨」があることは好ましく、ないのは恥ずべきことだという価値観がストレートに表されているのだが、「精神的な」という修飾語を抜きにするとどうなるだろうか、と考えてしまったのだ。

同様の比喩表現には、たとえば「自分の殻に籠もる」というものもある。これは多くの場合、悪い意味に用いられる。逆に「自分の殻を破る」だと、いい意味になる。「背骨」と「殻」を並べてみると、どうも前者がよいもので後者が悪いものだという含みがもとからあって、それが比喩表現に反映されているような気がするのだ。そこに何か釈然としない、もやもやとしたものを感じるのだが、それは一体何なのか、はっきりと述べることが難しい

件のエントリーで背骨が良いイメージ、甲羅が悪いイメージというのは背骨という比喩を考えた経緯にも影響されるけれども、やはり、この二つの言葉がそれぞれ持っている固有のイメージも引きづられていると思う。私のイメージでは背骨は成長が可能だけれども、甲羅は成長ができない(ある程度の大きさになると限界が来る)。なので、成長できない甲羅は悪いイメージになってしまう。