作品ではなく物語を賞味・鑑賞することの是非

話題のゴーストライターの話とそれに関連するエントリーを読んでメモ。オチや結論はない。

  • 料理を食べるとき、素材や調理方法、実際の調理だけでなく、食べる環境(盛り付け、内装やテーブルセッティング、室内環境、給仕者の技量)も一緒に勘案される
  • これは料理そのものだけでなく、料理+αのα部分も味わいに入れている
  • アイドルの曲については、アイドルそのものや振付・衣装などの見栄え、舞台演出なども含めて鑑賞される。音楽そのものだけではない。
  • 映画やドラマに使われた楽曲なども、楽曲そのもの+映画やドラマで自分が良いと思ったシーンのセットで鑑賞されることが多い。
  • 歴史的な遺物は遺物を通して物語を鑑賞・賞味していることが非常に多い。
  • ちょっと卑猥な例としては、芸能人がポルノに出るとそのビデオの価値が高くみなされることがある。顔や体の好ましさだけでみれば、その人を超えるようなポルノスターはいるだろうに。明らかに物語こみの消費になっている。
  • 作品自体ではなく他の要素も込みで賞味や鑑賞の対象とするのは「大衆的」であるわけでなく、一般的な行為である。
  • 一時期の食品偽装問題では、その料理を味わった人のほとんどが元の素材との区別がつかず満足していた(だから、発覚しづらかった)
  • 物語も込みで、元の素材を使ったのと同じぐらい満足できているのだから、元の素材と同じ値段を払うというのは満足度に対してお金を払うという観点からすれば適切
  • プラシーボ効果やノセボ効果は物語を摂取していることと等しい。
  • 物語を摂取することで、一般医療をうけたときと同じかそれ以上の満足度が得られるならばホメオパシーなどのニセ医療を受けても良いのではないか
  • 詐欺なども同じ
  • でも、こんな理屈で納得する人はいない。私も納得しない。
  • 作品自体が存在しない or 明らかに低レベルの作品であるとわかっているとき物語の力で本物と同じように鑑賞・賞味したことに対する裏切られた感はいったいなにか?
  • 作品そのものではなく物語こみで鑑賞・賞味することが批判されるとき、当たり前とされるときの違いはどこからくるのか?
  • 仮に「料理は食べる環境も込みで作品」とするとき、なぜ音楽は「楽曲+作曲者・演奏者の人生」で作品とならないのか?