「それで本当に全部なの?」への対処法

ほとんどの科学者、工学者、研究者は「ほとんどの事柄について『全部』とか『100%』と言い切るのは非常に難しい」ということを理解しています。あなたが世の中「全部」の関連する事柄を調べることができるとは思っていません。ですが、あなたが「新しい」や「独自である」、「十分である」を主張するならば、あなたは、あなたの能力の限界まで費やし、あなたにとって可能な限り世の中「全部」の関連する事柄を調べる、あるいは、列挙してみせるべきです。なぜなら、あなたが「新しい」や「独自である」、「十分である」を主張したいのであり、聞き手があなたにそう主張しろと強制しているわけではありません。これが基本原則です。

「それで本当に全部なの?」はだれもが感じる素朴な感想

以下のやり取りは、非常に自然な流れだと思います。

  • 「ねぇねぇ、お母さん。iPhone買ってよ!みんな持っているのに僕だけ持っていないんだよ?」「本当にみんななの?」
  • 「ちょっと、待ってよお客さん。この〜がこんなに安く買えるのはココだけだよ。今を逃すと二度とこんなに安く買えないよ!」「本当にここだけなの?」
  • 「安全性について万全です。」「本当にすべてのケースを想定したの?」

自分が主張される側であるならば「唯一の〜」「みんな〜」「〜は万全/十分」と言われたら、「本当にそうなの?」と素朴に疑問を抱くと思います。これは当たり前の話。みんなが素朴に抱く疑問なのですから、あなたが主張する側ならば、この疑問に答えて見せなければいけません。

本当に全部であることを示すのは超難しい

自分が列挙したもの、検討したものが全部であることを示すのは非常に難しい事柄です。なぜならば、ほとんどの事柄において、そもそも全集合およびその要素を特定することが自体が難しいからです。我々は神ではありませんから、検討したい事柄に関連するものが世の中にいくつ存在するのかを簡単には知ることができません。

では、どうするか?制限を設けることによって、実用上「多くの人が納得する」全集合を定義するという方法を用いて、検討対象を限定します。しかし、実用上「多くの人が納得する」全集合をどうやって定義するのかというのも非常に難しい話です。自分にとって都合が良い制限を使うならば、多くの人が納得してくれないですし、できる限り多くの人が納得するぐらいの制限であるならば、定義した全集合の要素が多すぎて(あるいは複雑すぎて)一つ一つにすいて検討したり、列挙したりするのが事実上無理になったりします。

どうやって「多くの人が納得する」全集合を見つけるか?

簡単な答えを私が知っているならば、私は世界有数の工学者になっているはずです。でも、今現在そうではありません。お察しください。

しかしながら、世の中には定番・定跡と呼ばれる方法があります。また、多くの人が認めている権威的・歴史的データベース/アーカイブ/資料・試薬集が存在します。これらを用いて、「多くの人が納得する」全集合を見つけるのが無難であると思います。もし、こういう定番・定跡がない場合はどうするかといえば、制限について理屈で納得してもらうしかありません。

なぜ、あなたにとって可能な限りの「全部」を示す必要があるのか?

読者や聴衆は、あなたの「新しい」「独自である」「十分である」という主張を確かめるために、あなたの代わりに「多くの人が納得する」全集合を見つけてあげる筋合いはないからです。主張したいのはあなた、読者や聴衆ではありません。

主張したいことのある「あなた」すら、努力して「多くの人が納得する」全集合を用意していないならば、なんで読者や聴衆があなたの主張を検討してあげなければいけないのか。ほとんどの場合は、検討するまでもなく無視されます。

卒論生、修論生のみなさんへ

あなたは別に主張したくなんかないかもしれません。なぜなら、卒業・修了したいから、研究やっているだけだから。ですが、研究は、その程度は別として「新しい」「独自である」「問題を解決するのに十分である」という主張がなければ、研究として成立しません。あなたが卒業・修了するためには、嫌でも自分のやったことが「新しい」「独自である」「問題を解決するのに十分である」と主張し、それを認めさせなければいけません。

先生や先輩から「本当にこれで全部なの?」と質問されて「うっせー!全部なんか調べられるか!」とか「ダメだ、これが全部であるなんて私の能力じゃ言い切れない。この場から消えたい」とか思うかもしれませんが、上の理屈を良く理解した上で、それが、あなたにとって可能な限りの「全部」であることを、力の限り説明してください。

追記:提示した全集合が十分でないと判断されるとどうなるか?

ちょうど良い事例があった。

東京電力福島第1原発事故による放射性物質の影響で、チョウの一種「ヤマトシジミ」に遺伝的な異常が出たとする調査結果を琉球大の大瀧丈二准教授(分子生理学)らの研究チームがまとめ、10日までに英科学誌電子版に発表した。

ヤマトシジミは人が生活する場所に多く生息する。チームは昨年5月と9月、福島県内のほか茨城、東京など計10カ所で採集した。

5月に集めた成虫144匹から生まれた卵をふ化させて育て、孫の世代まで調べたところ、いわき市広野町など福島県内のチョウは、子の世代で死ぬ確率がほかの地域に比べ高かった。線量が高い地域ほどオスの羽のサイズが小さくなっていた。

上の論文。

「異常があった」=「他のものに比べて異なっていた」という主張なので、「他のもの」が十分に網羅性を持っているかがこの主張を成立させるポイントとなる。で、その網羅性について疑義がでている。青森の蝶たち〜特集「ヤマトシジミの異常現象」にあるように、青森でのヤマトシジミには異常現象が起きていたことは既知であるのだが、この論文では青森が「他のもの」に入っていなかった。一方で、論文の著者の一人が過去に青森のヤマトシジミの異常現象について論文を書いている様子なので、著者らにとって可能な限りの「全部」であることについて疑義が生じている。