「どんな疑問や目標が求められているのか」という発想を壊したい

「自然な疑問」を持たないように訓練されている『自然な疑問』を持つように訓練するにはの続き。

「自然な疑問」を持たないように訓練されているでjackさんがとても本質的な問いを提供してくださった。そのコメントに対する私のコメントをエントリーとして再掲載させていただく。普段は、常体(だ。である。)でエントリーを書いているけれども、以下はコメントに対するコメントなので敬体(です。ます。)なのでご容赦を。

jackさんのコメントとそれへの返答

疑問とか目標を持てといわれると、「どんな疑問や目標が求められているのか」って正解を考えてしまいます。このエントリを読んでも、「自然な疑問」が「正解」となるような問題意識を持ってしまうというか・・・

素晴らしい!まさしく、jackさんがおっしゃる「どんな疑問や目標が求められているのか」というこの発想が今回のエントリーの肝です。私や私の教授、同僚の先生方が学生に卒研で理解していただきたいのは、「その疑問や目標が何故重要だと思う理由を自分で説明できるようになってもらいたい」ということなのです。

疑問や目標や答えの正しさ、適切さについてその判定基準は、先生や専門家が持っていて採点してくれるのではなく、あなたがその疑問や目標、答えの正しさの基準を我々に示して、その上で、あなたの疑問、目標、答えが正しいかどうか、適切かどうか、正しいならばどのくらい正しいのか、適切であるならばどれくらい適切であるとあなたは考えるのかを根拠を一緒にして説明できるようになって欲しいのです。

なぜかといえば、真に新しいこと、独創的なことについては多くの場合、その必要性、重要性、有用性に関して、発見者ではない他人は、全く理解できないことが多いからです。あなたの作ったの、提案したもの、発見したものの必要性、重要性、有用性は、発見者が他人に納得できるように評価基準を示し、発見物がその評価基準を上回っていることを示す必要があります。

将来、自分が発明したものの素晴らしさを他人に理解してもらうためには、その発明品を評価する基準を他人が持っているという考え方をやめ、その基準自体を発明者が提供できるようにならなければいけません。

一方で、自分が提案した評価基準自体が適切でないことがあります。その場合には、適切でないという意見を述べる人と十分議論をし、できる限り多くの人が納得できる評価基準に作り直せばよいだけです。

「自然な疑問」を持たないように訓練されている人たちに対する私の危惧は、誰かが正解をもっているに違いないと考えているので、自分は正解以外を発言してはいけないと考えているように見受けられる点にあります。自分の発言が間違っていると指摘されたら、直せば良いのです。議論して、意見交換して、より良い意見に鍛え上げられればよいと思うのです。

ですから、私の問題意識はまさしくjack さんが指摘してくださった「『どんな疑問や目標が求められているのか』って正解を考えてしまいます」という意識をどうやって壊すか。あるいは発展的解消をさせるかという点にあります。

私が学生にとにかく求めるのは以下のことです。
「あなたの答えとその答えの評価基準とその評価基準に従ったあなたの答えの評価をセットにして私にください。そうしたら、私はまず評価基準が妥当かどうかを検討し、その上で、あなたの答えを検討し、最後にあなたの答えの評価が妥当かを検討して、その上で意見を述べます。」

あなたの答えが正解であることを説明して欲しい

常体に戻して。内容は私が引用した部分とは異なり、自分の中にある感覚、基準を用いてどうやって問題を見つけ出すかについて具体的に提示してくださっているエントリーだが、途中で使われているフレーズがとても印象的なので、ちょっと別の用途に使わせていただく。

さて、上記記事を読んだ学生はこのように思うだろう。「では、どうやって『正解がない問題』を作れば正解になるのだろう」。
IHARA Note:「自然な疑問」の作り方。より)

(この引用から以下に展開する話は、引用元のエントリーの内容とは正反対なので注意されたし。)

jackさんのコメントでも書いたとおり、「『正解がない問題』の正解』を探す行為こそ「常に『(生徒が知らない)正解を大人が知っている』という受け身の姿勢の表れ。そうではなくて、卒論生、大学院生には、正解がない問題の答えについては、その答えが正しいことをあなたが主張すればよくて、それが正解かどうかを探す必要な全くないのだということをぜひ理解して欲しい。当然、主張なのだから反論が飛んでくる可能性がある。そのときには、自分の主張が正しくて、適切であることを反論者に説明すればよい。武運つたなく、相手の反論が正しそうに見えて、適切に感じたら、潔くあなたの主張を取り下げればよい。あるいは相手の反論を受けいれて、あなたの主張を修正すればよい。

自己主張が嫌われるのは、往々にして、自分の主張を相手に理解してもらう説明ができていないから。日本は察する文化なので、自己主張の理由付けをしないことが結構普通。なぜならば、自己主張が自己の感情を相手に伝えるととらえられるから。そうではなく、自己主張とは自分の信じるところを相手に伝えることで、自分がそれを信じる理由について相手に理解してもらわなければならない。感情は共感できても、理解はできない。その人の感情を自分の中で同じように再現することは基本的は無理。しかし、理由については違う。ある前提があり、その前提から導かれる話の筋に飛躍がなければ、その前提に納得する限りは、必ず同じ結論に達することができる。

卒業研究や修士研究、博士研究、科学的研究一般、技術的討論で求められる主張は、己の感情を相手に伝えるのが目的ではなく、自分が信じる事柄についてその理由を相手に伝えるのが目的。

だから、正解がない問題に直面したときには、

  • その問題を解く必要性
  • その問題が解決できたと判断できる条件(基準)
  • その問題に対する解決法
  • その問題に対する解決法をあなたが提示した条件で評価した場合の達成度
  • その達成度で問題を解決できたといえるかどうかについてのあなたの主張

理想的には、これらをすべて相手に提示できないといけない。

とはいえ、こんなのをいきなり提示できるならばそもそも大学なんて通わないでいきなり科学界や産業界にデビューを飾ればよいので、指導者(先生、先輩、本など)の手助けをかりながらちょっとずつ答えられるようになればよい。

先生や先輩や上司は、いきなりこんな能力を求めてくるけれども、当然、あなたがそんなことをできないのは知っているのだから、「自分ができないのは当然」「毎日、毎日少しずつできるようになればよい」「今日の自分ができなくても、数ヵ月後の自分ができればよい」と考えて、手を動かして、わからないことがあったら恥ずかしがらずに尋ねて、少しずつ少しずつできるようになればよいと思う。

教育上、上記のことができるように求めているけれども、一年前よりもちょっとでもできるようになっていれば、我々の教育としては成功。あなたにとっても、見事な成長といってもよい。だから、全部ができないからといって、勝手に絶望しないで、4月からの自分の進歩を自分自身で冷静に評価して欲しい。

途中から、自分の担当している学生へのメッセージになってしまった。でも、未来に私が卒論を教えることになる方々についても同じことを言いたいのでそのままにしておく。