いまさらながら「放射脳」という言葉は好かない

Togetter:放射能ノイローゼになったお母さんの小さな疑問を読んで、本筋の主張「いろいろな情報源を見ましょう」というのは依存異存がなく、むしろ素晴らしいことだと思う。

けど、どう定義しようと「放射脳」という言葉はどうも嫌だ。

ここで言う「放射脳」とは放射能ノイローゼのこと
「脱脳」とは、危険デマへの指摘等、様々な情報を得ることで、放射能ノイローゼが治ること
Togetter:放射能ノイローゼになったお母さんの小さな疑問より)

「エア御用」と同等の悪口として「放射脳」と言っているうちはまだ「バカ!」「お前の方がバカ!」とか「デブ」「なんだ、このガリ」というレベルだったのだけど、「お前は私の理解の外にある」を意味するレッテルとして強くなりすぎているように感じる。ちょっとでも対話や手助けを思う人は「放射脳」という言葉はいかなる意味においても使わない方が良いと思う。

怒りを覚えるのは正当である

誰だって、自分に非がないのに、あるいは自分が何もしていないのに、何かしらの不利益を得たならば不快感を覚える。ましてや、それが取り返しのつかないレベルのものならば当然の話。

3月11日の東日本大震災や福島第一原発事故によって、被害や精神的苦痛を受けた人が、「何の咎もないのに、こんな理不尽な仕打ちをうけており、自分で自分の家族と自分自身を守らなければならない」ということに対して、激しい怒りを覚えるのは当然の話であり、これを否定する人とはたぶんお話できない。

私は南関東に住んでおり、ほとんど被害をうけなかった(停電と節電ぐらい)。なので、津波の被害や地震による建物およびライフラインの破壊、原発事故による生活基盤の破壊/損害を受けた人の気持ちを想像することすらできない。そんな、停電と節電ぐらいの私でも「ふざんけんな」と思うのだから、より被害が大きかった人が怒りを覚えるのは当然のこと。

ましてや、急性でない慢性の放射線被害は確率的な話。私たち人間の多くは確率的な事象の認識がうまくないというのは、心理学や行動経済学で指摘されている点。自分が望んでもいない、引き金を引いてもいない事柄で、強制的に不得意な確率的事象を検討しなければならない状況自体に腹がたって当然。

だから、「疫学的・科学的見地から、原発周辺以外の地域の人は、放射能被害は精神の均衡を崩すほど心配することではないよ」という言い方は、上の正当な怒りを無視(あるいは否定)するように聞こえるので、受け入れがたいのだと思う。

でも、2011年3月11日より前にはもどれない

「何の咎もないのに、こんな理不尽な仕打ちをうけており、自分で自分の家族と自分自身を守らなければならない」ということに対する怒りがあり、この怒りは正当である。でも、この怒りを解く方法は、2011年3月11日よりも前の状態に戻すことだけしかない。

でも、神様じゃないのでそれは無理。すでに被害は受けている。そして、被害前の状況に戻せるものと戻せないものがある。戻せるものについても、我々が費やせる資源に応じてしか戻せない。つまり、「程度」問題であるということ。「程度」であるということは、言い換えると「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」ということ。

「子供たちには何の罪もないのに!」は正しい。「罪のない子供たちには何の不利益も発生しないようにするべきだ」は正しい。でも、現実的でない。「何も不利益が発生しない3月11日以前の現実」は壊れてしまった。私たちがどうにかできるのは、「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」という現実だけ。

この「『どのくらいの不利益なら受け入れられるか』という現実だけしか我々にはない」という主張が、「罪のない子供たちには何の不利益も発生しないようにするべきだ」という誰もが当たり前に考え、賛成する自然な思いを捨てさせる(ようとしているように思える)ところから、専門家とみなされる人たちの説得がスタートするのでどうしても反発を抑えられなかったのではないかと思う。

余談ながら、2011年を通してちょくちょくあったSTSの方々の科学者による科学コミュニケーションへの批判は、上記の正当な怒りを無視し、「『どのくらいの不利益なら受け入れられるか』という現実だけしか我々にはない」という前提確認もすっ飛ばし、「このぐらいの不利益なら受けれても良い」という提示および議論から入るのが、まずいという指摘だったのだろうと私は理解している。

「放射脳」という言葉が嫌に感じた理由=正当な怒りの否定にみえるから

何で上の事柄を延々とかいてきたのかというと、Togetter:放射能ノイローゼになったお母さんの小さな疑問にまとめられているつぶやきやコメント欄を見て、再び「正当な怒り」の否定が行われているようにみえたため。

「放射脳」という言葉を使っている人は、一部の過激なふるまいの人たちに限定して使っているのかもしれないけど、たぶん「放射線による被害に不安を覚えている」と自覚している人が自分に対して「放射脳」と言われているように受け取るだろう書き方になっている。そうすると、その文脈から「放射線による被害に不安を覚えている」という事実を否定しているように認識してしまう。

放射線による被害に不安を覚えない人はいないので、不安を覚えること自体は正当なものだし、自分が求めていないのにそんな不安を覚えなくてはならない現状に怒りを覚えるのは正当なことだ。正当な怒りを否定しているようにとられると、それだけで、何を言っても聞く耳を貸してくれなくなる。本当は、その正当な怒りの部分や覚えて当然の不安の部分は、「当たり前」の前提としてその次の話を届けたいと思っているのに。

もう、「放射脳」あら「わーわー教」やらは封印していいんじゃない。真正の人はそれを言われてもどうとも思わないし、ボーダーな人は「正当な怒り」「覚えて当然の不安」を否定されているとしか認識できないんだから。

「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」に目を向けた後は

私も専門家でないのでわからない。でも、このブログでも何度も書いているとおり、少しはましなレッテル貼りの方法を使って情報の取捨選択をするように心がけている。

私を含め、ネット上では玉石混交なのでどの情報源がまともなのかわからない。情報整理の味方である2×2表で考えてみると、ネット上の情報源は以下の4種類に整理できる。

-- 専門知識が多い 専門知識が少ない
根拠を示す A B
根拠を示さない C D

専門知識が多いと適切な判断を下すと考えれば、信頼できる情報源は以下の順番になる。

  1. A:専門知識が多い・根拠を示す
  2. C:専門知識が多い・根拠を示さない
  3. B:専門知識が少ない・根拠を示す
  4. D:専門知識が少ない・根拠を示さない

しかし、素人たる私たちは誰が専門知識が多いのかがわからない。その場合は、他の専門家がクロスチェックをかけた結果、誤っていることを指摘できる情報を選んだ方が良い。つまり、根拠を示している情報を選択した方が良い。よって、次のような順位になる。

  1. A:専門知識が多い・根拠を示す
  2. B:専門知識が少ない・根拠を示す
  3. C:専門知識が多い・根拠を示さない
  4. D:専門知識が少ない・根拠を示さない

関連

発生を防ぐための話と起こった後の話を切り分ける

「100mSv以下の累積放射線被ばく量では、ガン死の発生率が他の要因によるものと区別がつかない」という話があり、いろんな議論を巻き起こしているけど、未然に防ぐ話からの受け取り方と、起こった後の受け取り方では違って当然。

人体に有害なものを飲まないようにするのは当然、不要ならば一かけら、および一滴たりとも口にしないようにするというのはあたりまえの話。ここは基本的にゼロ・イチ問題になる。

一方で、不幸にして人体に有害なものを飲んでしまったとき、一かけら、および一滴たりとも許さないという話は、もう意味がない。意味があるのは、それがどのくらいの量から本当に有害であるのかという話。だから、「10mlぐらいでしたら大丈夫ですよ」というような言い方になる。この言説に対して未然に防ぐという立場から批判してもしょうがない。

「100mSv以下の累積放射線被ばく量では、ガン死の発生率が他の要因によるものと区別がつかない」という事実についてどう認識するのかも、まだ被曝していないと考えるのか、もう、被曝していると考えるのか、そもそも被曝しないことがあると考えるのか、そもそも被曝はさけられないと考えるのかで受け取り方が違う。

自分は発生を防ぐための話をしているのか、起こった後の話をしているのかを切り分けて考えた方が良い。

情報提示側が気を付けるべきこと

「正当な怒り」や「覚えて当然の不安」を否定しているというようにとられないようにする。その部分を前提とせず、主張そのものとしている人も多い。

さらに福島第一原発事故の場合には、被害が拡大した人為的理由がいくつもある。「なんの罪もない私が!」という正当な怒りと思いを持つ人の目の前に、道義的罪が満載の理由が大量に存在する。なので、ここいらへんを無視して、「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」の議論や提示を始めると大変なことになる。

良く比較される、ニセ科学批判は、「何の罪もないのに何故私が!」という思いを射程にいれない。その正当な思いに対して「この方法ですべてを(一部を)もとに戻せます」と主張し、対価を要求する輩がおり、その「方法」が科学的観点から何の効果もないときに、その方法が科学的に効果がないということだけを指摘している。

追記1

はてなブックマークでいただいたこのコメントのとおりだと思う。

  • celaeno_w 放射脳がどうこうというよりも、蔑称は自称はともかく他称されるべきではないってだけの話。「DQN」「キモオタ」「腐女子」「ニート」「ゆとり」「老害」も同様の事象。
  • tatsunop 蔑称的なのは、発言者は酷い事例のみに適用してるつもりでも、自虐で言う人間はそれを自分に当てはまると認識する場合も多いからなぁ。

追記2:「正当な」について

はてなブックマークのコメントでは、「正当な」にひっかかる方が多い様子。

  • 大筋の内容に反対は全然ないんだけど、そもそも感情に正当も不当もない気がする。「こういう場合に怒るのは一般的なこと」なら分かる。っていうか、そういう意味で言ってるんだろうと思うけど。

ちゃんと説明できておらず申し訳ない。個人がどんな感情をいだいても、他人がとやかく言えることではない。でも、「逆恨み」や「八つ当たり」、「筋違い」という言葉があるように、他者が「その感情をいだいてもしょうがないよねその感情を抱くのもいたしかたない/当然だよね」と思う文脈というのは存在する。私が「正当」と書いたのは、文脈からしてその感情を抱くのはしょうがない/当然であるという意味合い。

「一般的な」という言葉を使わなかったのは、多くの人はそう思わないけど、その人の性格だとこの文脈ではそういう感情を抱いて当然という認識もあったから。

追記3:正当ならなんでもやって良いのか?

はてなブックマークのコメントより。

  • 「怒りを覚えるのは正当である」ってのが根幹的に間違いの元と気付かなきゃ。「自分は正当なんだからなにをしても構わない」とこじらせちゃって、デマの流布や差別も厭わないのが放射脳なんだから。
  • 怒りを覚えることは正当でも、怒りの矛先が正当じゃないからバカにされるんだろ。
  • 自分が理不尽な不利益を被ったから他の奴にも理不尽な不利益を被らせてやるっていうのは正当とは言えんよ。ましてやもっと理不尽な不利益を被った人に矛先向けるなんてね
  • 「正当な怒り」論は筋違い。「正当な怒り」なら何をしても許されるわけではないと思う。

怒りを持つのが「正当」であるので、何をしても良い(大目にみようよ)という免責を与えているのではないかというご意見。まず、ご意見の「怒りを持つのが正当だからといって、何をしてもよいわけではない」という主張にはまったくもって同意。私もそう思う。バカな行動をしている人、ひどい行動している人を「バカな人」「ひどい人」と思うのもそのとおりだと思う。でも、それを批判するための言葉として「放射脳」というのは良い道具ではないというのが私の考え。これは「放射脳」は「エア御用」と同じ。「バカ/ひどいと思うのは正当だけれども、『放射脳』という言葉を使ってよいわけではない」という理屈。

ひどい行為には「ひどい」、卑劣な行為には「卑劣」、バカな行為には「バカ」と言えば良いと思う。そういう行為を繰り返す人には「ひどくて、卑劣で、バカな行為を繰り返す***さん」と言えば一番適切。「ひどくて、卑劣で、バカな行為を繰り返す***さん」は「文脈における感情の正当性」を主張の根幹として意見を述べるので、これに対して「この、放射脳!」と言ってしまうと、本来は「ひどくて、卑劣で、バカな行為」を批判する意図なのに「文脈における感情の正当性」まで否定しているように見えてしまう。

そして、そのやりとりを見ているボーダーな人(「文脈における感情の正当性」に同意する人、行為の良し悪しを判定できない人)は、「私の感情を否定された!」と感じて、「ひどくて、卑劣で、バカな行為」に対する批判が目に、耳に入らなくなる。私は、効率性の観点からこれがバカらしい思っている。というのは、似たような話を私は自分の所属研究室の卒論・修論指導で日々繰り返しているので。

「ひどくて、卑劣で、バカな行為を繰り返す***さん」方については存分に批判して良いと思う。でも、批判対象は行為と発言にし、しかも第三者が納得できるスタイルでやらないと、第3者からみて「どっちもどっち」にされてしまう。「放射脳」という用語によるラベリング(「エア御用」も一緒)は、「どっちもどっち」の材料にされやすい。

追記4:お前は被災者じゃないだろ?

はてなブックマークのコメントより。

  • いや、そもそも放射脳とか揶揄される人は被災者じゃないだろ。
  • 放射脳という表現が嫌というのはわかるけど、「放射能」と呼ばれる人って被災者では見たことない気が。エア疎開するきっこ氏のように放射能を過剰に恐れる非被災者ばかりな訳で

これも悩ましいところ。このエントリーを書こうと思ったきっかけの一つは上のTogetter:放射能ノイローゼになったお母さんの小さな疑問の悩んでいる方が埼玉県在住であったということ。ボーダーな人(「文脈における感情の正当性」に同意する人、行為の良し悪しを判定できない人)は、太平洋側の東北地方、千葉や茨城の人たちに比べて、その他の地域の人は被害なんて受けていないも同然なのだけど、本人の世界観からすれば、十分に被災している。「何の咎もないのに、こんな理不尽な仕打ちをうけており、自分で自分の家族と自分自身を守らなければならない」という精神状況になっているので。

だから、「お前は被災者とは言えないだろう」という点については「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」という検討の段階では、非常に有意義な指摘なのだけど、出だしでこれを言ってしまうと、正当な感情の否定になってしまう。

放射線による被害を恐れてパニックぎみになっている方々の手助けをしたいと思うならば、その人がどこに住んでいたとしても東日本大震災や福島原発事故における被災者とみなし、正当な怒りを持っていると認めた上で、「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」という検討に入っていくしか、効率的な方法はないのだと思う。

追記5:パニックから検討段階に入れた方の自虐注意!

Togetter:放射能ノイローゼになったお母さんの小さな疑問でパニックがおさまった例とされている方々は、他の同じような状況の人が「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」という検討に入るのをみて、自分も検討段階にはいっているみたい。自分と同じような状況なので「感情の共有」ができているので、その次の視点に移りやすいのだと思う。

ただ、ちょっと気にかかるのは、今までの自分の振り返りの段階で過剰に過去の自分を卑下していないかという点。私もよくやるのだけど、自分が失敗したときのことを振り返りながら他人に話すとき「あのときの自分はバカだった」というニューアンスでいろいろと話してしまうときがある。閉じた場での会話ならそれよいのだけど、Webに記録が残るような場合、過去の自分に対する批判が今現在同じ状況にある人への批判に受け取られてしまう可能性がある。

パニックを越えて、「どのくらいの不利益なら受け入れられるか」という検討に入る過程を記録するのは、他のパニックにあるかた、および、パニックになりかけている方にとても有用なので素晴らしいと思うのだけど、その際には自虐的表現にちょっとだけ注意を払った方が良いと思う(その方が、その記録の価値と有効性が高まる)。