情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できないに対するエントリー「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点 に反論をいただいた。
タイトルについて
タイトルの「科学はホメオパシーを否定できない」というのは、「論理的」な(ホメオパシーの立場からの)否定の話であり、「科学的」な(科学の立場からの)否定の話ではありません。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するより)
たぶん、わざと曖昧に言っていると思ったので特につっこみませんでした。
論理という言葉について
論理学は妥当な議論や推論の型を論じるものなのだけれども、情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できないでは、「型」の話は特に説明されていなかったため、「論理的」を強調している意図はわかりませんでした。
ですが、著者の池田さんが言いたかったことは以下であると私は理解していました。
リンク先のエントリーの基本的な主張は、前提が異なっている上に「正しさ」の基準も異なっているのであれば、それぞれの前提と基準を用いてそれぞれの「正しさ」「間違い」を論じていても、他方は納得しないだろうということ。
(「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点 より)
一方で、今回の説明は余計「論理的」が何を指すのかわからなくなっていると思います。
私たちは通常、科学と論理という二つの前提に立って、学問的なコミュニケーションをしています。しかし、科学そのものについて議論するときに科学をまるごと受け入れて話をするわけにいきません。そこでは、科学に何らかの科学的にはありえない仮定を加えて議論する必要があります。こうした議論がなぜ成り立つかというと、論理は、現実に反すること、科学的にありえない仮定でも扱うことができるのです。自分が使った「論理的」という言葉は、「科学に反する仮定の話」という意味です。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論する)
「現実に反すること、科学的にありえない仮定」を前提として妥当な議論や推論を展開するためには、妥当な議論や推論の型を明らかにしている論理学の知識を使えばやりやすいとは思いますが、別に知らなくとも議論はできます。
本当に疑似科学の信奉者を説得できるのか
「たとえ道は遠くても、いつか必ず分かり合える時が来る」っていうのを「机上の空論。議論するだけ無駄」って考える人もいるかもしれませんが、そういう人とは議論が平行線となり噛み合わないと思います。それは、どこまで言葉の力に希望を持つかという主観的な問題だからです。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するより)
特に異論はありません。おっしゃるとおり考え方の違いだと思います。ですが、このような主張を見た瞬間、尻馬にのって「疑似科学の信奉者を説得できないのであれば、ニセ科学を批判することは意味が無い」という主張をする人がたまにいるので、そうではないということを先のエントリーでは書きました。
二重盲検法に対する勘違い
二重盲検の話等、かなり誤解されていると思います。
また、議論の目的とか射程に関してもいろいろ思い込みがあるようです。
反論をまとめておいたので、一読いただけると幸いです。
(「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点 のinfoblogaさんのコメントより)
と言われてしまいましたが、別に勘違いしていないつもりです。そもそも、情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できないでの二重盲検法に関する説明は、二重盲検法がホメオパシー信奉者に対してアンフェアであるという説明の仕方でした。そこで、別にアンフェアではないということを述べたわけです。
先の話の理屈は、さらに丁寧に解説してくださった二重盲検法の流れでも一緒です。実験のデザインがホメオパシー信奉者も納得できるものになっているかどうかと、二重盲検法がホメオパシー信奉者に対してアンフェアであるかどうかは別の話です。
実際の臨床試験の流れをご存じない方にはイメージが沸きづらかったかもしれませんが、二重盲検試験にはコーディネーターが必要です。たとえば、13 番のサンプルは本物で25番のサンプルは偽薬(もちろん、この関係はランダム)というというようなひも付けをするコーディネーターがいるということです。どのようにひも付けしたかは、実際に患者、患者に接する医師や薬剤師には知らされません。
さて、「13番のサンプルが本物」というようにひも付けたときに、そのときのコーディネーターの気持ちが、薬に作用し、その状態を薬が保持するなんて考えられませんよね。だから、二重盲検は成り立っています。患者、医師、薬剤師がプラセボかどうかを知らなければ、コーディネーターの意識が試験の結果に影響するとは思えません。
ただ、コーディネーターは、対象となる薬が、プラセボなのかどうかを知っています。もし、この「知っている」ことが結果に影響するのなら二重盲検は成り立たなくなってしまいます。そもそも、「患者、医師、薬剤師がプラセボかどうかを知らなければ、コーディネーターの意識が試験の結果に影響するとは思えない」というのは、「物質に意思や感情が記憶されない」という当たり前の事実に依拠しています。普通に考えたら、物質は物質なのです。しかし、ホメオパシー信奉者は、この物質の概念を疑念を呈し、物質に何かが特別なものが記憶されると主張します。こういう立場に立たれてしまうと、科学はそれを論理的に否定することができないという話です。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するより)
ホメオパシーのレメディは実際に市販され、日常生活の中で持ち歩かれ、保管されているわけですから、それらのレメディが影響を受けないとされる程度の接触しかコーディネーターに許さなければよいのです。上記の説明で言うならば、コーディネーターには、直接試薬を触らせず、試薬にラベルを貼る人材をランダムに選出すれば、「コーディネーターの意識が試験の結果に影響する」ことを排除できます。
たとえば、具体的には次の手順で十分だと思います。
- コーディネーターがコーディネーター以外理解できない偽薬用ラベル、レメディ用ラベルを用意する(実験がおこなわれる場所から時間的にも空間的にも十分離れたところで用意すれば文句はでないと思われる)
- 偽薬とレメディを実際に被験者に振り分ける「振り分け人」をランダムに選択し、容器に貼ってあるラベルだけを頼りに、被験者に振り分けるように指示する
- 偽薬作成者は、偽薬用ラベルを貼った偽薬を振り分け人に渡す
- 偽薬作成者が立ち去った後に、偽薬製作者に知られないようにレメディ作成者がレメディを振り分け人に渡す
- 実験をおこなう
- 「振り分け人」あるいは「観察者」が実験結果をコーディネーターに送る
「振り分け人」を中立な対象群からランダムに選択できていれば、物質に何かが特別なものが記憶されるとしても、良い影響、悪い影響が打ち消しあってフェアに評価ができます。
このようなホメオパシー信奉者も納得するような実験が組まれていなかったという話と二重盲検法がホメオパシー信奉者にとってアンフェアーな物であるという話は別の話です。上記の実験ならば、「物質に何かが特別なものが記憶される」という前提があっても問題ありません。
(本来ならば一次文献を調べるべきですが、横着して「代替医療のトリック」の該当部分を参照してしまいますが、)また、元のベンベニストの主張は「高度に希釈されたアレルゲンを含む溶液(実際には含まないと言ってよい)に好塩基性白血球が反応を示す」というものです。ですからそもそもの実験で議論している話は、人の思念が水に記憶されるかどうかという話ではありません。
二重盲検法に対するもう一つの説明
この部分は意味のない主張だと思います。プラセボという再現可能な事実すら認めない人に対しては、何を説明しても納得してもらえないのは当然の話です。
再現可能な事実すら認めない人が「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する理論の一つに過ぎない。しかし、科学の方が圧倒的に説明能力が高いのだから、私たちは科学の方を信じるべきではないだろうか」という説得を受け入れるはずありません。なぜならば、そのような人たちは「科学の方が圧倒的に説明能力が高い」ということを認めないからです。
つまり、いかなる論理的な説得も不可能です。説得のいくつかのステップでそれが正しいことを認めないわけですから。
おわりに:信じる、信じないという言い方を止めて欲しい
情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するに対する反論ではありませんが、ついでに。
「人は間違える」という基本的な認識にたって試行錯誤を重ねて積み重ねられた方法論やその方法論に従って蓄積された事実、その事実を整合的に説明するために構築された仮説をひっくるめて「科学」と呼んでいるだけです。
常に検証可能に作ってあるのが科学の方法論や仮説、収集した事実なので、基本は検証すれば良いのです。
ですが、我々には知力や財力、時間に限りがあり検証しきれない部分があります。その部分をどうとらえるかが科学コミュニケーションの問題になっているわけですが、これは0、1の問題ではなく、程度問題です。程度問題を「信じるか、信じないか」の話と同一視するのは止めて欲しい限りです。
追記
補足をいただいた。二重盲検法に関する議論の目的について。
ちなみに、自分としては、
科学を受け入れていない人は、『実験に関わった特定の人物が悪影響を与えた』という主張を、正当化できる可能性がある
これを示すために可能性の一つを挙げただけです。
だから、next49さんの二度目の批判のように、「別の実験のデザインをすれば良い」というような反論があるなら、私はそれに対して、科学を受けていない人にとっての、別の説明の例を挙げれば元の主張を維持できます。これだと無限後退に陥るというのなら、自分は「二重盲検法に対するもう一つの説明」を挙げて、元の主張を維持することもできます。
結論に関しては、「(相手の出方によっては)科学はホメオパシーを否定できない(かもしれない)」と補ってもらっても良いでしょう。科学的には中身のない主張ですので、科学的に反論しようとしてもあまり意味がないと思います。悪魔の証明という奴ですね。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するの「二重盲検法の議論の目的」より)
つまり、元エントリーに対する二重盲検法に関する話は、二重盲検法がホメオパシー信奉者にとってアンフェアな方法であったというのが目的でなく、科学的方法によってホメオパシーを科学的に否定しようとしても、科学的方法自体をホメオパシー信奉者は受け入れないので意味がないということの一例だったわけですね。それならば、特に異論はありません。
これは本質的な問題で、かつ納得できません。どうも「検証可能」という概念について違う理解をしているようです。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するの「科学における検証について」より)
とありましたが、私の書いていることと池田さんが書いていることは同じことを言っているように思うのですが、最後の部分が違うのだと思います。
だから、検証可能性によって科学を正当化する議論は、そもそも「現在の科学は間違っているかもしれない」という含意を含んでいます。それでも、信頼に足るのが科学だかということです。これは科学の検証可能性に関する一般的な議論でしょう。「間違っているかもしれない」けれど、信頼することを「信じる」と表現するのは、ごく普通の日本語表現だと思います。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するの「科学における検証について」より)
広辞苑第5版によれば
しん・じる 【信じる】(しん・ずる【信ずる】)
- まことと思う。正しいとして疑わない。「霊魂の不滅を―・ずる」「身の潔白を―・ずる」「勝利を―・ずる」
- まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。「部下を―・じて仕事をまかせる」
- 信仰する。帰依きえする。「仏法を―・ずる」
とあり、ニセ科学批判の文脈で「科学を信じる」というとき、多くの人が「科学を正しいとして疑わない」あるいは「科学教を信仰する」という意味で使うので、先のエントリーで「程度問題を『信じるか、信じないか』の話と同一視するのは止めて欲しい限りです。」といいました。
科学は池田さんも同意されているように検証可能です。ですから、自分が納得 or コストが許すまで検証してみれば良いというのが私の考えです。自分ができるかぎり検証した上で、検証できなかった範囲を正しいと信頼するならば、特に異論はありません。
こういう議論に慣れていないかもしれないので、もう少し補足しておくと、こういう時に「信じる」をどこまで拡げるかは程度の問題です。「目の前にディスプレイがある」にも使えます。だって、ないかもしれない。科学的に検証しようと思っても、無限後退に陥ります。「秤はそこにあるのか」「重さの概念は実在するのか」。ディスプレイだって「ある」って信じているのです。自分は「目の前のディスプレイの存在」は信じるに足る事実だと思っているし、科学も信じるに足る事実だと思っています。
(情報学ブログ:「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論するの「科学における検証について」より)
伊勢田 哲治:哲学思考トレーニングにも、懐疑主義の例として出てきましたが、今回の話はここまで遡らないといけない話なのですか?もし、ここから始まるのでしたら、議論の前提を理解していませんでした。(追記:8/10 18:40)ここから話始めるならば、世界はいかようにでもとらえられますので、実りある話にならないと思います。