そこで、誠に勝手ではありますが、「こういう手順を踏めばよかったのではないか」と思う論理の習得のステップを、以下のように考えて見ました。
- 推論と、推論と似て非なるもの(例えば推測など)の違いを知る
- 正しい推論の具体例を実際にいくつか見て、正しい推論が正しいかどうかを自分で確かめる(あるいは、必ずしも正しくない推論の具体例を実際にいくつか見て、それらの推論が必ずしも正しくないことを自分で確かめる)
- 正しい推論のパターンがどのように定義されるのかを知る。
- 日本語と推論のパターンとがどのように対応しているか知る
上のエントリーは「論理」について勉強するときの話だけれども、便乗して自分が論理学を学ぶときに何が難しいと思ったのかを思いつくままに列挙してみる。
- 現実世界での応用が即座に思いつかず、記号遊びにしか思えない
- メタ言語と対象言語の区別がついていなかった
- 論理学の本ごとに形式システム(Formal system)が異なっており、同じことについて書かれているとは思えなかった
- ヒルベルト形式の公理系システム(Hilbert style axiomatic system、公理たくさん、推論規則少ない)、ゲンツェンの自然演繹システム(Natural deduction system、公理少ない、推論規則たくさん)、ゲンツェンのシーケント計算システム(Sequent calculus system、シーケントという式と推論規則で構成)が主な形式システム。本ごとに形式システムが違うので最高に混乱する。
- 論理学の本ごとに論理式の表現、論理結合子の表現、用語が異なる
- 本の中で一貫していれば、どんな表現でも良いので。用語が異なるのは翻訳が違うから。
- 構文論の話の中で論理式の真・偽が登場する。結果、構文論と意味論の区別がつかなくなる。
- 議論の焦点が「個々の命題の真偽」なのか「論証(inference)が妥当かどうか」なのかが混乱する
- 一階述語論理式の真偽を判定する話のところで、何気に計算可能性理論(決定可能性)が登場して、その知識がなくて意味がわからなくなる
- 論理学の教科書で扱っている(古典数理)論理における「真・偽」の概念と私たちの日常的感覚の「真・偽」の概念の差が理解できず、混乱する
- たまに、現実世界の事柄において古典数理論理における「真・偽」の概念を使って、「だから、論理的におかしい」と言う人がいるけど、そもそも、議論している部分が古典数理論理における「真・偽」に対する話かどうかを良く検討しないとそんな主張は意味ない。
「論理学をつくる」は、上の私の混乱した部分の大半を丁寧に解説してくれているとても良い自習書。