何と何を掛け合わせているのかを理解させたい(確認したい)のならば、単位付きで書かせれば良いと思う。自分では、数式を作るときには混乱しないように単位付き(というか、単語)で数式を作っている。たとえば、速さと時間から道のりをだすときには、「速さ」×「時間」=「道のり」とかいている。
たぶん、基本は自分で計算しないでプログラムを組んで計算機に計算をさせるためにこういう書き方の癖がついたのだと思う。
高校では数学が苦手だった。理由は定義、公理、定理の区別が付かなかったため。
追記
- さつきのブログ「科学と認識」
遠山啓の主張
彼は、著作集の中の『量とは何かI』(太郎次郎社、1978)の「II-外延量と内包量」の章に、「6×4、4×6論争にひそむ意味」(p114-120)という特別の節を設けて、この問題を6ページ半に渡り詳述している。同じ事は、『水道方式とはなにか』の卷においても繰り返し述べられている。それは、1972年1月29日の『朝日新聞』に、小学校のテストをめぐって、ここでの議論と同じ論争が載ったことがきっかけになっている。
(遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在) より)
こんなに古い問題なのか。上記のエントリーと下のエントリーを読んでやっと批判者の批判ポイントが理解できた。
批判ポイント
- 「単位あたりの量」×「個数」の概念を理解するために式の順序を利用するのは、式の意味を誤解させることなので良くない
- 「単位あたりの量」の考え方は人によって異なる。5人に1りんごを3個ずつ配るとき、「5人に1個ずつを3回」と「1人に3個ずつを5回」と二通りの考え方があり、どちらかを間違いとする誰もが納得できる説明はない。
- 実数の掛け算には交換則が成り立つので、式そのものの意味としては、(「単位あたりの量」×「個数」)と(「個数」×「単位あたりの量」)には違いがない
- 「単位あたりの量」×「個数」の概念を理解しているかどうかを知りたいならば、5人に1りんごを3個ずつ配る問題であるならば「『1人当たり何個のりんごを配るか?』×『それを何人分行うか?』という形で式をつくってください」と問題文に書けばよい。式の順番で「単位あたりの量」×「個数」の概念を理解しているかどうかを知ろうとするのは、教師の採点効率の都合であって、生徒の都合ではない
- 教師の採点効率の都合で、式の順番から「単位あたりの量」×「個数」の概念を理解するにせよ、罰点にするのではなく、三角にした方が良い
- 罰点は、全否定なので「式の順番が違うのを罰点にしてのは教育計画上の方便」であるということが生徒に理解できない
- 「単位あたりの量」の考え方は人によって異なることがあるので、一律に罰点にしてしまうと、「単位あたりの量」の考え方が違う子と「単位あたりの量」×「個数」の概念を理解していない子の区別が付かない。三角にしてコメントをいれるべき。
追記2
はてなブックマーク - Togetter - 「かけ算の5×3と3×5って違うの?」で紹介されていた以下のPDFファイルを読んだ。
主張していることはわかるけど、それこそ掛け算の定義自体で式の×記号の引数の順番はどうとでもなるだろうという感想。しかも、遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その1:問題の所在) を批判する立場のテキストだったりする。もう、わけがわからない。
ただし、数学は現実世界とは独立のものである主張は賛成。数学は現実世界の反映でなく、それぞれの数学分野ごとに定義と公理から構築される理論であるという認識がないと大学の数学で困る(既に高校の数学でも困る)。たとえば、集合論とグラフ理論の初歩を教えているけれども、学生が(もっというと昔の自分が)現実世界と教えられていることの対応付けがつかないと「理解した気にならない」ということが発生している。
なので、数学を大学で使う教員たちからいえば、初等教育で数学を現実世界の反映として教えられるのはちょっと困るのだと思う。