大変面白い。後半の発言がわかりやすいので転載
これは、@tricken さんの「自然言語に見える人工言語」という言い方を換骨奪胎して言うと、人文学において「文献を読む」ということは、その文献を「人工言語」として受けとり、そこに現れる語彙や文法の「独自用法」に注意すべきなのに、多くの人はそうはしていない。
そういうふうに、本来はそこに現れる「独自用法」に細心の注意をもって挑むべき文献でも、それが(うわべは)慣れ親しんだ言語で書いてあると、読めばいちおうは読めてしまう。でも、この「いちおうは読めてしまう」というのが、不幸のはじまりだったりする。
話が拡散しそうなので、ここいらでまとめよう。人が、ものを読むときに陥りやすい「罠」は、次の2点。1) 十全な意味で「読めていない」はずのものを「読めている」と思ってしまうこと。2) ある一定の共通解釈をある文献に与えうるのに、それを「できない」としてしまうこと。
これらふたつの「罠」から帰結することは、そう、勝手な読み。人文系の学問の「基礎訓練」というものがもしあるとすれば、「勝手な読み」を極力排除しつつ、書かれたものを厳密に読むこと、こうしたことはかくじつに求められるであろう。
論文の書き方の基本は、上のような「テクストの読み方」をしなくても、誤解のないように事実や主張が伝わるように書くというもの。なので、独自用法や独自文法を使うのは非常に嫌われるし、注意される。上のリンクの解釈にしたがうと、文学の方々は論文のような配慮がされていない文章で、著者により意識的にあるいは無意識的に構築されている自然言語を用いた人工理論を読み取るということをやっているということになるのか。
結果として、著者本人により「私はそんなことを意図して書いたわけではない」という発言が導き出される場合もあると。なぜなら、意識的に理論を構築している場合と、無意識に構築している場合があるから。