問題駆動な勉強法

今、ちまたで話題沸騰の「遅延評価学習法」、そのエッセンスは「必要に感じたら必要なところだけを勉強する」というもの。

私は、このような考え方を卒研の指導教員に教わった。師曰く

  • あらかじめ全部を知っておく必要はなく、必要になったら必要な分だけ学べば良い。なにせ卒研には締切りがある
  • 本は、全部読む必要はない。前書き(preface)、目次がもっとも重要でここだけを熟読し、後は後ろについている索引を使って必要なところだけ読むこと。中身を読む場合もちゃんとした本は各章の最初に章のサマリーがあるはずなのでこれをまず読むこと。
  • 論文は、タイトル、概要、はじめに(Introduction)、おわりに(ConclusionあるいはConcluding remarksかSummary)をよく読む。どうしても必要なとき以外は中身は読まない
  • 技術や道具の選択については、やりたいことをはっきりさせ、その要求にあったものを必要に応じて選ぶ。要求が最初。道具は二番。

この勉強の仕方の特徴は問題駆動であるということ。つまりゴールがはっきりと見えているときの勉強法。なので、

私も、遅延学習法とやらはせいぜい受験みたいなものであって、およそものを学ぶというのとは違うなと思っている。

遅延学習法では「そこに至る過程がはっきりとした」「すでにうまく行くことがわかっていること」しか学べないのだ。そのどちらかが欠けてもダメである。

という見方が当然ありうる。問題が提示されたときの方法だから。答えがあることが分かっており、その解答方法を学ぶときのやり方なので基本は効率的な受験勉強と同じ。

一方で、答えがあるかないかを探す。問題自体を探す場合には、体系的に勉強して、土台となる知識を用意し、その上で研究をしないといけない。

分野によって異なるとは思うが、研究とは科学的手法に基づいて世界に存在しなかったものを存在するようにするものである。勉強は、世界に存在するものを学ぶ(存在を認識する)ことである。もう一度いうと、研究は「無い」ものを「有る」ようにするのが目的、勉強は「有る」ものを「知る」のが目的。

研究は基本的にどこにも答えがない。場合によっては、問いすらない。問いや答えを自分で作りだし、その問いや答えの妥当性を出来る限り多くの人間に納得させなければならない。仮定や前提によって問いや答えは変わるので、多くの人間が納得する仮定や前提を選ばなければならない。つまりは、問題を解決する枠を用意し、自分の用意した答えがその枠をぴったり満たしていることを示さなければならない。一方、勉強は、基本的に問いも答えも用意されている。すなわち、問題解決の枠とその中身はあらかじめ用意されている。問題解決の枠が決まっているので、答えもひとつに定まることが多い。問題解決の枠の妥当性も他人が保証してくれている。

卒業研究で配属されてくる学生(私も含む)が、もっとも苦しむのがこの研究と勉強の違いである。勉強しかしらない身では、この問題解決の枠を自分が自由に設定してもよいということと、なぜ、その問題解決の枠が妥当であるのかを自分が保証しなければならないという点を理解できない。この2点が理解できない限り、まともな研究を行うことはできない。

問題が妥当なこと、答えが正しいことを保証するためにはその裏付けとして体系的な理屈が必要となる。勉強はこの体系的な理屈を構築するためにも必要不可欠となる。このような場合は、そもそも何を学べば体系的な理屈を構築できるのかわからないので網羅的に体系的にある分野を勉強する必要が生じる。

問題を発見したあとは、必要なところを必要なだけ勉強する。問題を発見するためには、必要かどうかわからないけど網羅的に体系的にある分野を勉強して、そこから飛躍する。