勉強が好きな人は修士がつらいかもしれない

すぐには働かなくていいし卒業後にもしも働けたときは学部卒より給料もいいだろうけど、よっぽど勉強が好きでないかぎり進学は禁止。おじさんとの約束だ。

さて、リクナビでも見るか。

修士課程の位置づけは変わったけれども、やはり研究がメイン(答えのない事柄に対する姿勢を学ぶには研究は良い教材)。勉強と研究は違うので、研究が好きじゃない人には修士はつらいとおもう。勉強がすごい得意な人はまれに研究が苦手なので、勉強できるからといって修士が性に合うかはわからないので注意。

追記

はてなブックマークのコメントより。

  • Cai0407 「勉強できるからといって修士が性に合うかはわからない」学部の間に高校までに築き上げられた「勉強」の概念そのものを組み直さなきゃいけないのに、それができないまま院に上がると確かに悲惨なことになりそうだ

おっしゃるとおり。

追記2:勉強と研究の違い

分野によって異なるとは思うが、研究とは科学的手法に基づいて世界に存在しなかったものを存在するようにするものである。勉強は、世界に存在するものを学ぶ(存在を認識する)ことである。もう一度いうと、研究は「無い」ものを「有る」ようにするのが目的、勉強は「有る」ものを「知る」のが目的。

研究は基本的にどこにも答えがない。場合によっては、問いすらない。問いや答えを自分で作りだし、その問いや答えの妥当性を出来る限り多くの人間に納得させなければならない。仮定や前提によって問いや答えは変わるので、多くの人間が納得する仮定や前提を選ばなければならない。つまりは、問題を解決する枠を用意し、自分の用意した答えがその枠をぴったり満たしていることを示さなければならない。一方、勉強は、基本的に問いも答えも用意されている。すなわち、問題解決の枠とその中身はあらかじめ用意されている。問題解決の枠が決まっているので、答えもひとつに定まることが多い。問題解決の枠の妥当性も他人が保証してくれている。

卒業研究で配属されてくる学生(私も含む)が、もっとも苦しむのがこの研究と勉強の違いである。勉強しかしらない身では、この問題解決の枠を自分が自由に設定してもよいということと、なぜ、その問題解決の枠が妥当であるのかを自分が保証しなければならないという点を理解できない。この2点が理解できない限り、まともな研究を行うことはできない。