研究指導教員の立ち位置

アタリマエのことではあるが、それぞれの大学院生が抱えている課題は「研究課題」である。「研究課題」ということは、原則として、全く同じ課題に過去に取り組んだ人がいないということであり、結果が「わからないこと」である。結果が「わかっている」なら研究ではない。「わからないから研究」なのである。

もちろん、教員とて「研究の結果がどうなるか」はわからない。意外に知られていないけれど、研究とは「教員も結果がわからないこと」なのである。 

もちろん、教員側には若干の「経験」「テクニック」「クソ度胸」がある。これらを駆使すると!?、課題の結果が「全くわからない」かというと、不思議なもので、何となくおぼろげながら「予測」はつく。

〜中略〜

 むしろ、教員のやっていることは「わからないこと」を前に、学生と一緒に討論し、彼が仮説を練り上げたり、意思決定をすることを助けることに近いように思う。をあるいは、「研究って楽しいぞー、こうやりゃいいのかもしれねーぞー」ということを、「研究する自分」を通して見せることに近いように僕は思う。

「わからないことを、わかったふりをして教えることはできない」。まして「教員が仮説を練り上げ、意思決定をするなら、それは教員の研究である」。もちろん、「やる気がない人にやる気をつけてあげる時間はない」。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 : 「大人の学び」を科学する: わからないことを教える!?より)

引用部前段は、毎年自分に言い聞かすべき事柄だと思う。あまりにも自分にとって当たり前すぎる(研究の定義より明らか)けれども、研究をやったことのない学生にとっては明らかじゃない。学生がそう思っている可能性を忘れちゃうと、不要なプレッシャーを与えてしまいそう。後段も重要。教員が考えて、教員が理由をつけて、教員がやり方を考えたら、それは教員の研究である。ごもっとも。

やはり、来年に向けて学生に伝えるべきは以下の事柄と再確認。

「『正解がない問題』の正解』を探す行為こそ「常に『(生徒が知らない)正解を大人が知っている』という受け身の姿勢の表れ。そうではなくて、卒論生、大学院生には、正解がない問題の答えについては、その答えが正しいことをあなたが主張すればよくて、それが正解かどうかを探す必要な全くないのだということをぜひ理解して欲しい。当然、主張なのだから反論が飛んでくる可能性がある。そのときには、自分の主張が正しくて、適切であることを反論者に説明すればよい。武運つたなく、相手の反論が正しそうに見えて、適切に感じたら、潔くあなたの主張を取り下げればよい。あるいは相手の反論を受けいれて、あなたの主張を修正すればよい。

「どんな疑問や目標が求められているのか」という発想を壊したいより)

今年は学生に「先生はわかっている癖に『どうしてそうなるの?』って質問してくるのできつい」と言われちゃったが、ほとんどの場合私もどうしてそうなるのか分かってない。たまに、教育的配慮から、私は分かっている、あるいは私は私なりの答えを持っているのに「どうして?」ってわざと聞くけど。たぶん、言い方がダメなんだな。