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『自然な疑問』を持つように訓練するには

発声練習

正直、良いコメントをメモしただけのエントリーにこれほどの注目が集まってびっくりしている。酔うぞさんの使った言葉「『自然な疑問』を持たないように訓練されている」が、今のみなさんが感じていることを的確に表しているからなのだと思う。感じたことを的確に表すことができる能力の重要さをあらためて感じている。

先のエントリーの終わりを

広範囲でこのような特徴の生徒・学生が見受けられるということは、来年以降も続々とこのような特徴を持つ卒論生が研究室に配属されてくるということで、何とか対策を考えて、卒業するまでに能力を飛躍させないといけない。

でも、どうやったら良いのだろう。

で終わらせているが、以下の条件を満たしているならば、何とかできる自信は今のところある。

  • 彼らが私と私の教授(私は助教なので教授の研究室運営を手伝っている)を信頼してくれていること。具体的には以下のについて信頼してくれていること。
    • 彼らが質問をすること、反論をすることに対して、我々が歓迎しているということ
    • 我々が基本的には、彼らの良い行為については褒め、悪い行為については叱るという行動規範を持っているということ
  • 彼らが自分自身について「まだ訓練不足(学習不足)だ」と思っていること。すなわち、学ぶ姿勢を持っていること。
  • 彼らがわからないときには「わかりません」と正直にいってくれること。
  • 実際に手を動かしてくれること。言われた課題や提示された問題に真剣に取り組んでくれること。

上記の条件を満たしているならば、卒業研究+修士研究でどうにか、彼らが自分自身を「自然な疑問」を持つように訓練するようにもって行くことができる。具体的には、徹底的に質問をし、意図を問いただし、使っている言葉を吟味させる。そして、考えていることを流れるままにさせておくのではなく、焼きつける癖をつけるのを手伝う。そのことについては、発声練習:質問というノミを使って回答者と一緒に問題を彫るにまとめてある。

研究を進める上でもっとも重要なのは、「今、自分が考えていることは何か」をはっきりと言語化して焼き付けることである。研究を進めているときには頭の中にぼやぼやと何かしらの考えがある。しかし、「ぼやぼやとした何かしらの考え」という状態で研究を進めると本当に得たい事柄と別の事柄に対して労力を使ってしまうことになる。よって、「ぼやぼやとした何かしらの考え」をはっきりと言語化し、何かに焼き付けて、自分や他人の目で確認できるようにしなければならない。
発声練習:質問というノミを使って回答者と一緒に問題を彫る

また、焼きつかせるために、アウトプットをとにかく出す癖をつけさせる。アウトプットを出すことを恐れることはないということを繰り返し教える。

MORI LOG ACADEMY:本当に考えたの?

「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと
良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。

「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。

まったくおっしゃるとおり。学生の立場にもなったことがあるし、教員の立場にもなったことあるのでこの状況がすごく理解できる。
そして、上記のエントリーを受けて以下のようにおっしゃる方もいる。

DESIGN IT! w/LOVE:Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)

ダメなアウトプットを恥ずかしがって出そうとしないから何にも前に進まないんじゃないでしょうか? そういう人には「考える」って頭を使うことじゃなく手を使うことですよって言いたい。「考える」のは頭じゃなくて、目の前の紙と手の組み合わせなんだって。

そうなんですよね。とにかく頭の中にあるうちはそれは考えたといえないんですよね。

アートディレクタの佐藤可士和さんは、デザインの案を数百レベルで用意し、その中から選ぶ、あるいはよりよいものを作るという手法をとると聞いた。頭の中を外に出し、頭を覚えておくことから考えることに使えるようにしているのだと思う。
発声練習:どこで考えるときにどうやれば良いのかを教わるのか

なぜ、卒業研究と修士研究の期間を使えば、彼らが自分自身を「自然な疑問」を持つように訓練するようにもって行くことができると思っているかといえば、卒業研究と修士研究、博士研究の過程を通して学生に学んでもらう究極の目的が「問うこと、そして、その問いが重要であることを説明すること」にあるためだ。

研究は基本的にどこにも答えがない。場合によっては、問いすらない。問いや答えを自分で作りだし、その問いや答えの妥当性を出来る限り多くの人間に納得させなければならない。仮定や前提によって問いや答えは変わるので、多くの人間が納得する仮定や前提を選ばなければならない。つまりは、問題を解決する枠を用意し、自分の用意した答えがその枠をぴったり満たしていることを示さなければならない。一方、勉強は、基本的に問いも答えも用意されている。すなわち、問題解決の枠とその中身はあらかじめ用意されている。問題解決の枠が決まっているので、答えもひとつに定まることが多い。問題解決の枠の妥当性も他人が保証してくれている。

卒業研究で配属されてくる学生(私も含む)が、もっとも苦しむのがこの研究と勉強の違いである。勉強しかしらない身では、この問題解決の枠を自分が自由に設定してもよいということと、なぜ、その問題解決の枠が妥当であるのかを自分が保証しなければならないという点を理解できない。この2点が理解できない限り、まともな研究を行うことはできない。
発声練習:研究と勉強の本質的な違い

一度、卒業研究で「研究とはどうやら勉強とは違う」ということを実感してもらい。修士研究を通して、その実感をモチベーションとして、研究の方法を学ぶというプロセスをとれば「問うこと、そして、その問いが重要であることを説明すること」の必要性と重要性がわかってくるみたい。実際に会得できるかどうかは別だけど。

長期的には、小・中・高等学校の教育、特に国語教育を変えればどうにかなると思う。具体的には、感想主体の授業をやめ、論述・説明主体の授業へと切り替えないといけないのだと思う。もう、20年近く前になるのにも関わらずいまだに国語に対して恨みをもっているのが以下の原体験があるから

私が国語の時間が嫌いになった理由は、小学校のとき「この作品を読んであなたはどういう情景を思い浮かべますか?」という先生の質問に対し、私が、「私は***という情景を思い浮かべます。」と回答したら、「うん、でも、正解はXXXXXという情景なんだよ。」と先生に言われたからである。私の考えを聞かれたから回答したのに、それを他人である先生が、しかも根拠なく不正解であると宣言した経験が「国語というのはどうしようもない科目だ」と私に思わせた。
発声練習:外国語で発想するための日本語レッスン)より

また、どうして論述・説明主体の授業にしなければならないかは、前回のエントリーが人気になった主要因である「『自然な疑問』を持たないように訓練されている」という言葉を放った酔うぞさんのエントリー酔うぞの遠めがね:中央教育審議会の基本方針とapjさんのエントリー:: 事象の地平線::---Event Horizon---:まだちょっと違う気がするに触発されて書いた発声練習:日本語による言語技術習得でまとめた。

酔うぞさんの

感想書かせると「面白かった」とかが終わる生徒が過半数です。どこが面白かったのかも書かない。

というのは、日本は「相手が発したあいまいな言葉から相手の意図を察すること」がコミュニケーションで重視されているため、基本的に相手の意図を察することができなかったときでも、相手の意図を明確にするために質問することは良いこととされない傾向があり、そのため、理由を追求される経験がないために上記の例のように「面白かった」で終わってしまう生徒が多いのではないかと考えられる(「外国語を身につけるための日本語レッスン」の方に同じような例がいくつも紹介されている)。

それで、この日本語ベースコミュニケーションの特性に由来する「理由を説明しない」という癖が高校生以降も残ってしまう理由が、apjさんが指摘されている

「体験学習で感じたことを作文にまとめ」るんじゃダメだろう。まずは、「体験学習で何をやったか他人にわかるように説明する作文を書く」でないと。

という、今現在、日本の初等教育では「体験学習で何をやったか他人にわかるように説明する作文を書く」というような説明する技術が教えられていないということだろうと思われる。

そして、全くどうして良いのかわからないのが、修士課程に進まずに卒業研究が終わったら卒業してしまう学生。そういう学生を短期間でどうすればよいのかわからない。理想的には、先のエントリーのコメント欄で紹介されていたProblem Based Learningを試みたら良いのだろうけれども、これは気軽に導入できるものじゃない。だって、ほとんど卒論指導だもん。

私の勤務する大学では、現在が卒論提出に向けてのクライマックス。今年はかわいそうなことに、強力に『自然な疑問』を持たないように訓練されている学生がおり、ほとんど、卒業研究を代行してあげているくらいに研究目的とか、出すべき成果とか、成果と目的の対応関係とか、考察すべきポイントとかを説明してあげているけれども、その子は、
いまだに自分が何を何のために行っているのか説明できない。こういう子をあと数日間でどうにか脱皮させてあげたいけど、どうにもできない。