どこで考えるときにどうやれば良いのかを教わるのか

MORI LOG ACADEMY:本当に考えたの?

「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと
良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。

「いろいろ考えてはいるんですけどね」と言い訳する人には、その「いろいろ考えたものを見せてくれ」と頼む。ところが、たいていは、せいぜいあっても1つしか案がない。1つの案しかないのに「いろいろ」なんて言うなよ、と思う。1つでは選べない。これでは何を考えていたのか、問いたくなる。

まったくおっしゃるとおり。学生の立場にもなったことがあるし、教員の立場にもなったことあるのでこの状況がすごく理解できる。
そして、上記のエントリーを受けて以下のようにおっしゃる方もいる。

DESIGN IT! w/LOVE:Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)

ダメなアウトプットを恥ずかしがって出そうとしないから何にも前に進まないんじゃないでしょうか? そういう人には「考える」って頭を使うことじゃなく手を使うことですよって言いたい。「考える」のは頭じゃなくて、目の前の紙と手の組み合わせなんだって。

そうなんですよね。とにかく頭の中にあるうちはそれは考えたといえないんですよね。

アートディレクタの佐藤可士和さんは、デザインの案を数百レベルで用意し、その中から選ぶ、あるいはよりよいものを作るという手法をとると聞いた。頭の中を外に出し、頭を覚えておくことから考えることに使えるようにしているのだと思う。

ある日、佐藤は案をいくつ作るのかと尋ねた。クライアントに案を出す際にはカラーの違ういくつかの案を出すのが一般的だ。答えを聞いて、赤面したという。
―「できただけ」。
「大貫さんの“案ができた”っていうのは、あらゆる意味でのパズルが解けてるパーフェクトな答え。だから、そんなにいっぱいはできない。ほとんど1個ですね。そのぐらい本質的なところに入っていく。すごい衝撃でした」

いろいろな人が考えるときには、考えたものを実際に目で見える形にしなければならないと同意しているのに、どうしてこの技術が小学校〜大学までの間で、教えられないのか?

私の答えとしては、そんなを教える科目がないから。考えて、堂々巡りになって、何もアイデアが手に入らなくて困った経験ができる科目を私は卒業論文でみたことはない。授業の外では、部活動、サークル活動、委員会などの課外活動、友達との付き合いなどでみたことあるけど。課外活動で考えるときの技術を教えてくれる人なんていないよね。

と、結論が持論「卒業研究をやることは役に立つ」につながるのですが。ちょっと我田引水過ぎますかね。