裁判は「科学的」「技術的」正しさを確定する場ではない

腫瘍がGMO原因依るとの発見研究者が訴訟に勝った!を読んで心配になったので。

基本的な情報のフィルタリング技術として、「**さんが裁判で勝った。よって、**さんが主張している~の『科学的/技術的』正しさがこれで証明された。」という主張は不適切なことが多いので除外するのが良い。上の例もかなり怪しいけど、典型例は以下のもの。裁判で争っていることと、裁判に(実質的に)勝ったことから~が言えると主張していることがリンクしていないことが多い。

裁判が「科学的」「技術的」正しさを確定する場であるならば、研究者は論文を学術雑誌に投稿するのではなく、裁判所に論文を送っているはず。でも、そうなっていない。裁判所の役割は以下のとおり。

裁判所の仕事は,個人間などの法律的な紛争を解決したり,犯罪を犯した疑いがある人が有罪か無罪かを判断したりすることにより,国民の権利を守り,国民生活の平穏と安全を保つことです。
裁判所:裁判所の仕事より)

法律的な紛争の解決の過程で、『科学的/技術的』正しさが争点となり、それを判定するための資料の提出を裁判所が命じることにより、今まで検討ができなかった『科学的/技術的』正しさの検討ができるようになるということはあるだろうけれども、それは副次的な役割であり、裁判で勝ったか負けたかとは関係ない。

少なくとも2016年2月現在では、以下のようにしてしか「科学的」「技術的」正しさを確かめる術はないというのが私の認識。

  • 論文が取り下げられたかどうか(取り下げられたということは、その科学的事実が存在しなかったということ。)
  • 主張したグループと異なるグループが追試・再検討して、再現性を確かめたかどうか
  • 批判やそれへの再反論が科学的枠組み(主に論文の形)で行われているかどうか
  • 主張を補強するあるいは、裏付ける研究発表が以後続いているかどうか
  • 同様の研究報告が蓄積し、メタ分析が行われ、その上で研究報告の妥当性が裏付けられているかどうか
  • 数年~数十年後でも、科学的枠組みの中の科学的事実や学説として生き残っているかどうか(ある時点でたくさん賛同者がいるかどうかよりも、長期的に賛同者が継続すると言う方を「確からしい」として採用するのが科学の流儀)