論文の書き方は瑣末な問題ではない

論文の書き方のルールだとか、都合のいいデータだけそろえる科学者がやってはいけない初歩的心得違いだとか、得意げに既存社会の正しさを並べ立てている。

福島民報: 菊池哲朗の世相診断 【小保方さんの騒ぎ】オヤジたちが情けない(4月16日)より)

他者が検証できる形で情報を提供するというのは、「〜科学」「〜工学」の基本理念です。どうして、これが基本理念であるかといえば、大前提として以下の考えがあるからです。

  • 人は間違える
  • 人は自分のみたいものしか見ない
  • 今の人類の測定技術には限界がある

悪意を持っていなくても、上記の理由により公開された情報は正しくない可能性があり得ます。さらに、悪意をもって情報を公開する人もいるのですから、常に他者が検証しやすい形で情報の公開を強制するのは当然の戦略です。

論文の書き方というのは、研究者界隈のつまらないローカルルールに見えるでしょうが、上記の「他者が検証しやすい形で情報の公開をする」という観点から洗練されてきたものです。今回のSTAP細胞の例は、「他者が検証しやすい形で情報の公開をする」という研究者の根本的な使命を果たしていないことに対して、多くの人が批判をしているのです。

いくつかの例外があるかもしれませんが、「〜科学」「〜工学」の分野では、他者が検証しやすい形で情報の公開をしていないものについて「ある」とは認めないという立場をとっています。これは私たちの日常からすると厳しい要求です。この要求に耐えられるように情報公開を行う術を学ぶという機関が大学院です。

この要求に耐えられるように情報公開を行う術を学ぶという機関が大学院であるのにも関わらず、それを学ばせていなかったからこそ、多くの人々が「大学院は本当に教育をまともにやっとるのか?」と疑念を抱くようになっています。

そして、STAP論文の共著者たちが論文についてちゃんとチェックしていなかったことについても「ちゃんと共著者やっているのか?」と疑念を呈されており、かつ、その責任を説明していないにも関わらず、問題はすべて小保方さんにあるとしているのにも「そんなわけないだろう」と批判されているという状態です。