当事者はめんどくささに耐えられない。でも、外部の人たちはめんどくささに耐えることを要求するという事例。1つ目の話は、マナー推進・強制の権威として「江戸しぐさ」という概念を構築している人たちがいて、それを教育現場に導入しちゃおうと思っている人がいるという話。後半は、ある個人が必要以上に騒ぎ立てるので根負けした行政の担当者が要求を受け入れたという話。
水からの伝言、ゲーム脳など次から次へと教育の現場にニセ科学やニセ人文学が広まるけど、これは「良いと思うことを説得コストをかけることなく広めたい」「誰かが良いと思うことを早急に広めなければならない(というプレッシャーを受けている)」という状況がまず存在しているということが根本的な原因だと思う。その状況であるかぎりは、状況下で目的を達成するために有用そうな道具を次から次に探して使ってみるというのは正常な行動。研究者だって、ビジネスマンだって同じことしている(ライフハックなどの〜ハックなんて典型例)。
何の本で読んだのか忘れたのだけど、京都大学と別の大学で講義を担当した教員の方の感想は「京都大学の学生は積極的に自分の意見を述べ、質問もどんどんしてくる。これは別の言葉でいうと、京都大学の学生は非常に面倒くさい。」という主旨のことを書いていた。主体的に自己主張するというのは、こちらが求めないのにいろいろと言ってくるということだし、分からないことがあればどんどん質問するというのは、自分で調べれば良いことも含めていちいち対応しなければならないということでもある。
1人〜10人くらいは、主体的で、質問をどんどんできる生徒や学生に耐えられても、それが40人になると対応コストも半端なことではない。これがお給料もらっている仕事ならば、その「めんどくささ」に耐える気力が湧いてくるとしても、日々の生活として「自分の子供である」から「めんどくささ」に耐えなければいけないとなったら、心折れる日があるのも誰も非難できない。たとえば、なんで?なんで?攻撃をしたことある人も多いだろうし、子供のころこれで怒られた(not 叱られた)人も多いと思う。2〜3歳のかわいい盛りだって、毎日毎日、何時間も「なんで?」って尋ねられたらほとんどの人にとってしんどい。
公務員が守るべき重要な性質は公平性であり、公平性の観点からすると、うるさく騒ぎ立てる人は人的リソースを独占する人であり、この人に費やす人的リソースの分、他の人への人的リソースの分配が少なくなり、公平性は保てなくなる。そう考えれば、大勢に影響ない話ならばさっさと要求を受け入れて黙らせてしまった方が、公平性を担保できると考えるのもわからなくない。
それぞれは、それぞれの立場があって「めんどくささ」に耐えられなくなり「めんどくさくない」ようにしている。しかも、それはしょうがない面もある。でも、外部からすると、「めんどくささ」に耐えられなくなること自体が憂慮すべき話に見える。そもそも、道徳や倫理は、個々人の考えに基づいた上で社会の多くの人にとって迷惑にならない、あるいは、歓迎すべき事柄をできるようになることを目的として行われるべきであって、何らかの権威にしたがい服従しろということを刷り込む場じゃない(それをやってしまうと、主体的な人材というものが育たない。主体的な人材は基本的に自分勝手で面倒くさい人材なので)。表現の自由や図書館の自由は、なあなあでなし崩しになるのは困る(それをやってしまうと、図書館戦争の未来になってしまう)。
特に解決策を出せないけれども、ある職種や組織、場には「めんどくささ」に耐える力を持っていてもらわないと困る。そして、それが個人の努力でどうにもならないならば、仕組みと外部との協調により、なんとか耐えられる程度の「めんどくささ」に抑えるようにしないといけない。
教育の話でいえば、主体的な市民が暮らす社会は全般的に「めんどくさい」社会であり、ある程度の「めんどくさい」ことを耐えるのも市民の義務であるということを、教育される生徒ではなく、教育する大人および、それを外から委託する大人も理解しないといけないと思う。
特に結論は出せないけど、もやもやしていたのでエントリーにした。