「体罰が必要だ」という人は「体罰=強制力」という意味で使っているのでは?

まとめ

  • 「良い体罰、悪い体罰」論の支持者のうちの何割かは「体罰」=「強制力」という意味で使っていると思う。
  • 強制力を持つための方法は、体罰だけではない。
  • ある組織においてリーダシップをとるときや教育を行うとき、ある人に何かを行わせる(行なってもらう)場面は多い。理想的には、内発的動機を引き出すか、正のインセンティブを与えるべきだが、能力的・環境的に強制力(負のインセンティブ)が必要な場合もある。
  • 体罰をなくすためには、体罰以外の負のインセンティブを与える方法の学習と、体罰よりもマシな負のインセンティブを与える方法がない環境の改善が必要だと思う。

本文

効率は別として、ある人に何かを行わせる(行なってもらう)には、その人の内発的動機か外発的動機に訴えるしか無い。外発的動機づけは、その行為を行うことによって利益を与える方法(正のインセンティブを与える方法)と、その行為を行わないことによって不利益を与える方法(負のインセンティブを与える方法)の2つに分かれる。

負のインセンティブを「強制力」と呼ぶとき、体罰は、体や精神に対する暴力を行うことによって、もしくは、その可能性を見せることによって、相手に対する強制力を持つための方法であると思う。

ある組織においてリーダシップをとるときや教育を行うとき、ある人に何かを行わせる(行なってもらう)場面は多い。このとき、以下の4つのケースが考えられる。

  1. メンバーの全員の内発的動機づけが十分である
  2. メンバーの全員の内発的動機づけが十分でないとしても、正のインセンティブを十分に与えることができる
  3. メンバーの全員の内発的動機づけが十分でなく、かつ、正のインセンティブを十分に与えることができないとしても、体罰よりもマシな強制力を有している。
  4. メンバーの全員の内発的動機づけが十分でなく、かつ、正のインセンティブを十分に与えることができない、そして、体罰よりもマシな強制力を有していない。

1から3のケースでは、体罰は明らかに不要だ。4のケースの場合は悩ましい。

希望者から選抜されて構成されている集団(プロスポーツチーム、実業団、スポーツクラブ、会社員など)は、構成員の内発的動機づけが高い傾向があり、かつ、正のインセンティブを十分に与えやすい(与える方法がある)。また、希望者から選抜されて構成されている集団の構成員は、その集団からの除名を嫌う傾向にあるので、体罰以外の負のインセンティブを与える方法もある。すなわち、1〜3のケースのどれかに当てはまりやすい。

一方、希望者から構成されている集団は、希望者から選抜されて構成されている集団よりも、構成員の内発的動機づけが低い傾向にある。正のインセンティブを十分に与えられる方法があるかどうかはケースバイケース。希望者から選抜されて構成されている集団と同じく、その集団からの除名を嫌う傾向にあるので負のインセンティブを与える方法もある。すなわち、1〜3のケースのどれかに当てはまりやすい。

希望しているしていないに関わらず構成される集団では、構成員の内発的動機づけが低い傾向がある。正のインセンティブを十分に与えられる方法があるかどうかはケースバイケース。その集団からの除名が効力を持たない可能性がある(公立学校などの場合、その集団からの除名できない場合も多い)。負のインセンティブを与える方法もいろいろと限定される。すなわち、2〜4のケースのどれかに当てはまりやすい。

以下の引用は、4のケースを想定しているか、「体罰」という言葉を「強制力」という意味で使っているのかのどちらかだと思う。

なので親の方が社会的地位が先生より高い。大学の入学偏差値も工学部とかの方が高い。昭和と違い親が先生を尊敬する要素が減ったのだ。親が尊敬しない教師を子どもが尊敬する訳がない。

授業は基本的に聴かない。だいたい経験的に2〜3割くらいが聞かない。でも教師もののドラマや映画みたいに露骨に全員がそうなる。ああいうのは稀にある(聞く)けど相当末期。多分都道府県に1クラスあるかどうかのレベル。特に教師対生徒でなく担任対生徒の構図になってしまうものは学校が組織として機能してないから現実はドラマにすらならない。

90年代以降厳しくなり教員の体罰も原則禁止だから子どもは自由に振る舞う。授業中は数名身体も後ろの黒板を見ている。俗にいう学級崩壊が始まる。

そうすると処方箋は2つ。子どもと馴れ合うか権威的に振る舞うかだ。勉強や学習は面白いんだと唱えても聞く気がないのだから、第3の道なんてない。
技術教師ブログ:体罰とかで騒いでる暇ないよこれから学校教育は本当に苦難の5年を迎えるより)

こちらは「体罰」という言葉を「強制力」という意味で使っているのか、強制力をもたせる方法として「体罰」以外思いついていないのかのどちらか。

体育会系の部活に入る子供は、主に3通りいます。

1.巧くなりたく、強制されなくても理論通り練習ができる人
2.巧くなりたいけれど、強制されないと理論通りの練習ができない人
3.無理をしてまで巧くならなくても良い人

1は既にプロレベルです。
プロの世界では、できなければ簡単にクビになる厳しい世界ですから、練習をしなくても叱る必要はありません。このタイプの人に体罰をしても無意味です。

2は一般的なやる気のある生徒です。
理論通りに体が動いてないとき、体罰を加えるのは効果があります。

3は趣味としてやりたい生徒です。
趣味ですから嫌な思いをする必要はありません。体罰をしても無意味です。

2のタイプの人は、口頭で注意されても頭では分かっているため反発をしてしまいます。1に合わせた対応をされると、「無関心・放置された」と感じます。逆に、体罰をしてまで指導してくれた人に「愛情」を感じるのです。

スポーツにおける体罰について - 生島勘富より)

こちらは、強制力が必要な場面があると認めながらも、体罰以外の強制力発揮法を使うべきだと述べている。

生島氏の意見は、ある意味体罰容認派の典型的な考え方であるといえます。簡単に言えば、「口でわからない奴には、体で覚えさせるしかない」ということです。

しかし、その手段としては体罰を与えることしかないのでしょうか。 口でわからないから体で覚えるしかない。それはある意味正しい考え方です。指導者の言う意味が理解できない時には、とりあえず無理矢理にでも言うことを聞かせて、後になってその意味がわかる、というのは、よくあることです。

しかし頭で理解できないことを実行させるのに、繰り返しになりますが体罰という方法しかないのでしょうか。

決してそうではありません。体罰を与えなくても、相手に威圧感を与えれば、嫌々でも言うことを聞くでしょう。怖い人に怒られたら、自分では違うと思ったことでも、たとえ手を出されなくても、言うことを聞かないと怖いと感じて、とりあえず言われた通りにする、ということは、あるでしょう。

実際に手を出さなくても、威圧感を与えるだけで広い意味での体罰だ、という考え方もありますが、ひとまず置いておくことにします。

生徒に対して威圧感を与える手段として、体罰を加えるのか、それ以外の方法を取るのか、というのは、指導の技術的な問題です。そして技術的には、体罰を加える方が手っ取り早いです。だから、「口でわからない奴には体で覚えさせるしかない」という話に結びついてしまいます。
スポーツや教育に体罰は必要なのか? - 前田 陽次郎 より)

おわりに

私は大学で助教をやっていて、授業担当したり、所属研究室で学生の指導をしたりするけど、強制力がなければ授業も指導もとてもやってられない。でも、体罰は必要ない。理由は、体罰よりマシな負のインセンティブを与える方法があるから(そもそも、体罰では大した強制力を発揮できない)。

体罰を容認と言っている方の何割かは、強制力(負のインセンティブを与える方法)が必要と言っているだけだと思うので、以下を推進したならば、体罰反対派の人と一緒にやっていけるのではないかと思う。

  1. 体罰よりマシな負のインセンティブを与える方法を提示する
  2. メンバーの全員の内発的動機づけが十分でなく、かつ、正のインセンティブを十分に与えることができない、そして、体罰よりもマシな負のインセンティブを与える方法を実行できない環境をなくす

追記:体罰が負のインセンティブを与える方法として力を発揮する条件

体罰自体が負のインセンティブを与える方法として非効率になるようにするのもひとつの手。以下の条件を崩すと体罰自体が負のインセンティブを与える方法として非効率になる。

  1. 体罰を受ける側が体罰をする側にやり返すことができない
  2. 体罰を受ける側がその集団から離れることができない
  3. 体罰を受ける側が肉体および精神への暴力を恐れる

サッカーで体罰がほぼ淘汰された理由で説明されていることのうち、指導者のライセンス制度と選手の選択肢が増えたという理由は、1と2の条件を崩す制度・環境変更なのだと思う。私が、大学で体罰がは大した強制力を発揮できないと思う理由も1と2の条件が崩れているため。