人と比べられることからの逃避

私のすっごく浅いBL感は、中学生か高校生のときに読んだ中島梓:コミュニケーション不全症候群amazon.co.jp)での中島梓栗本薫)さんの解説であり、小説道場1)(2)(3)での間接的な説明から来ている。

中島梓さんの個人的内的衝動を言語化したもので、一般化できるものではないのだろうけど、男の目線からの評価が否応なくつきまとうために、それを外す方法として、女がまったく出てこない世界を構築しているという解釈に、ひどく納得したのを覚えている。そして、男性はそういうことがなくてよかったなぁと浅はかに思ったのも覚えている。

ところがどっこい、上記を読んでいた時代とは異なり「イケメン」という言葉が一般的になっているように男性も「女の目線からの評価」が否応なくつきまとうようになっており、それの評価を外すために「リア充」なる言葉をつくって「その基準には含まれない自分」を作り出したのかなぁと感じるようになった。少年 or 大きな少年向けの女の子しかでてこない漫画やアニメは、中島梓さんの説明するBLの男性版に見えて仕方ない。

そして、研究者という職業を選び、業績や研究資金獲得額で評価される身となった私は、研究者が一切登場しないフィクションが大好きになり始めているのではないかとちょっと危惧している。というか、気が付けば小学生のころからファンタジーや歴史小説が好きだった。すでに現実世界から逃避していたことに気付く、日曜の午後。

とまれ。脱線した。このエントリーを書こうと思ったのは以下のエントリーを読んで、中島梓さんの主張を思い出したから。

私は「女の子要素」の何が苦手か。たぶん、すべてを「女の偏差値」で測る価値観が苦手なのだと思う。その偏差値を上げるためにだけ「頑張る」、そのくせ自分の行動を客観的に判断する目がないことに違和感をおぼえるのだろう(可愛くないなー)。

もちろん自分の中にも“偏差値”に対するコンプレックスはあって、だから余計に「女の子要素」との折り合いをつけるのが難しかったのかもしれない。

結婚と妊娠を経験したことは、私にとっては「もう“偏差値”卒業ですよ」というお墨付きをもらえたような意味もある。そして、逆説的だが、これで初めてのびのび「女の子」を楽しめるようになった気がしている。“偏差値”から解放されてしまえば、「女の子」であることは本当に楽しい。

こういうのを読むと。こういう認識を抱かせてしまっている原因の一部たる男性に属していることを申し訳なく思ってしまう。これは、中島梓さんの本を読んだときもそう思った。

一方で、もともとは「大黒柱」という割り当てだけだった家庭における男性にも、新たな評価システムがちゃくちゃくと構築されてきているので、「男の子偏差値」の次は「お父さん偏差値」が来るのだろうな。

まとまらないけど、気になったのでメモ。