kikulog:少ないものをどれほど減らしても多いものには影響しないわけでのコメント#14#15がおもしろい。
>「事故で大量に流れた」ほうが圧倒的に問題なんです。
きくちさんは倫理学で言うところの「帰結主義」と呼ばれる立場を当然の前提としてとっておられるんだろうと思います。何をしたかではなく結果としてどうなったかが大事だ、という考え方です。この考え方をとるなら、大勢に影響のない行為で責められるのは確かに筋が通りません。
これに対して、倫理学でいうところの義務論という立場であれば、結果の如何に関わらず何をしたかで行為の善し悪しが問われ、徳倫理学と呼ばれる立場では、どういう動機、心情でやったかということが重視されます。倫理学では、帰結主義よりも、これらの立場の方がわれわれの「直観」、無意識のうちに受け入れている倫理観に沿っているということがよく指摘されます。
義務論の考え方からすれば、意図せざる事故で大量の放射性物質の流出がおきるのと、自発的にそれより少量の放射性物質を流出させるのでは、後者の方が重要な倫理問題になる可能性は多々あります。結果よりも自発性が大きくカウントされるわけです。
徳倫理学的に言えば、放射性物質を自発的に流出させるという行為そのものよりも、その行為の仕方に見えてくる意思決定者の人格が問題になります。漁業関係者や周辺諸国への配慮が十分なされた上で苦渋の決断をしたのか、目の前の問題解決に気を取られてあまりそういうところで心を痛めずに決定したのかで全く評価が違ってきます。記者たちはそのあたりをはっきりさせるために追求していると見ることもできます。私自身はこういう緊急事態では帰結主義的発想が大事だろうと思うのできくちさんのコメントにも納得なのですが、どのレベルで行き違っているか(事実認識の差なのか、基本的倫理観の差なのか)見誤るとコミュニケーションもうまくいかないだろうという趣旨の書き込みでした。
(#15)
自然科学のコミュニケーションの訓練を受けた人であればあるほど、結果が重要であり、結果に至るまでどれくらい苦労したのかについて重きを置かないように考え方が修正されると思う(そうでないと、「あんだけがんばったんだから、ちょっと結果をいじっても」を許してしまう)。上でいう「帰結主義」をとりがちなのではないだろうか。
一方で、民意の体現者たるジャーナリストのみなさまは、われわれが納得できる情報、欲する情報を手に入れることについて訓練されていると思われるので、上で言う「偽無論義務論」の立場になるのかもしれない。
やっぱり、多くの人が受け入れる倫理観に翻訳することができるスピーチライターや広報、すなわち、科学コミュニケーターが必要なのは間違いないと思う。しかし、倫理学という学問の中にこれほど重要な知見があるとは。やっぱり、学問は広く、多様に、記録に残していかないといけないよなぁ。
追記
isedaさんの追記。
わたしの書き込み(#14 iseda)について黒木さんからご指摘があったのでちょっとだけ補足します。(黒木さんとのやりとりは http://togetter.com/li/120841Link をご参照ください)。
黒木さんのご指摘のポイントは、要するに、ジャーナリストの責任が問題になっていたはずなのに、わたしの書き込みで政府や東電の責任に話がそれてしまった、ということだったと思います。もし本当にわたしの書き込みのせいで以下の話がずれていったのだったら申し訳ないところです。わたしの意図としても、東電と政府の倫理的問題を直接問題としたかったわけではなく、きくちさんのジャーナリストに対するコメントが、本人たちにうまく通じる仕方で書かれているかどうか、ということが気になっていたのでした。
わたしが答えようとしていたのは、「それを「鋭く」追求している暇があったら、もっと訊くべきことはあるのじゃないかなあ」「放射性物質の量がだいじだっていうことを本当にわかっているのかなあ」というきくちさんのコメントです。前の書き込みでは舌足らずになっていましたが、「きくちさんから見てわかっていないように見えるのは、実はわかっていないのではなくて、そもそも拠って立つ倫理観がちがうからそういう言動になっているのかもしれない」という指摘を本当はしたかったわけです。もちろん記者会見で追及していたジャーナリストの方達は本当にただ分かっていなかっただけかもしれないので、その場合には、彼らはきくちさんのブログを読んで考えを改めるでしょう。でもそうならなかった場合(そして彼らが悪意でやっているといった想定をしない場合)、倫理観の差というものを考慮に入れるのは大事だろうと思います。
以上、前の書き込みで伝わっていなかったかもしれないことの補足でした。
(#69)