アウトプットすることとそれを誰に見せるかは別

前提がわからないので、書いてある内容だけから感想。私の半径5mの観察だと、ほとんどの人はアウトプットを躊躇する(詳しくは、価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないどうやったら質問を思いつけるの?などのやりとりをご参照ください)。

ほとんどの人は他人の内面など読み取れないので、アウトプットとして外部に表現されないものについては「存在しない」ものと判断する。また、自分自身で自分が何を考えて、何を感じていいるのかというのは案外わからないもので、何かしらの形で自分の外に出して見ないと理解できない。

リンク先のエントリーでは、才能がないのにそれに気が付かないふりをしてつまらないものをアウトプットし続ける人に対して不快感を呈しているけれども、アウトプットしなければ、自分に才能があるかどうかすらわからない。

  1. 自分の外に何らかの形で吐き出す
  2. 吐き出したものを誰かに見せて評価してもらう
  3. 吐き出したもので誰かを感動させる

他人を感動させられないアウトプットに価値はないのは確かだけど、価値があるものしかアウトプットしてはいけないという制約を自分に課すと、アウトプット自体ができなくなってしまう。まずは、吐き出すことが大事。

十分に吐き出せるようになったならば、その後に他人に見せてよいものとそうでないものに切り分ける作業をできるようになれば良いと思う。常に価値あるアウトプットをすると思われている人は、他人に自分のアウトプットを見せて良いと判断するフィルタリングの基準が優れているのだろうと思う(自分の内部に他者の目がある)。

ガンガン吐き出して、くだらないアウトプットで世界を埋め尽くしてしまえば良い。