説明文の表現読み

知らない分野の話しにはいつもびっくりする。

上の記事で、表現読みという勉強法があるのを初めて知った。

表現よみとは、文学作品をよむための理論と実践のことです。理論文でも表現よみはできますが、最適なのは文学作品です。それも小説あるいは物語です。そこには「語り手」の語る明確な声があり、「語り口」が文章からよみとれるように書かれているからです。

文学作品を読むことは「追体験」「疑似体験」などといわれます。わたしたちは登場人物の行動や考えから、人間のモラルや生き方などを考えさせられるのですから、作品を情報として読むのではなく、自らの心にとりいれるような読み方が必要です。そのためには、どんなよみ方をしたらいいのでしょうか。読者は書かれたことを体験することはできませんが、作品の世界に接近する必要があります。

表現よみには、「目でよんで→体で感じて→声に出す」というスローガンがあります。まず文章を目で見たとき、およその文の意味が理解するとともに、体に何か感じられる反応があります。黙読ならばそこで終わりです。しかし、表現よみでは、その理解した内容と体の反応を声に表現するのです。すると、声と同時に理解はより深まり、体の反応もより高まります。さらに表現された声を自ら聞くことによって、自分の理解や反応を自ら確認できます。それが正しければ、次の文章によみ進み、まちがいがあればよみ直したり、修正を加えて次に進むことになります。つまり、理解→反応→表現という過程に音声化を取り入れることで、内容理解と表現のフィードバックができますから、より高度な理解と表現ができるのです。

表現よみは、聞き手を意識して,聞き手に媚びて、聞き手に向かってサービス過剰に、オーバーに、音声表現するしかたではありません。表現よみは、ぎんぎらぎんでなく、さりげなく音声表現するしかたです。

濃厚な厚化粧でなく、淡白な薄化粧で音声表現するしかたです。表現よみは、これでもかと飾りすぎない読み方、うるさくない程度に文章内容を的確に直截に表現し、印象を強める音声表現のしかたです。表現よみは、オーバーな表現で刺激的にあおりたて、押えつけ、押え込む読み方でなく、読み手の音声(人格)が消えて、作品世界の状況や登場人物たちの行動(心理感情)だけが浮き立ち、聞き手の心の底にじんわりとしみこむような音声表現、そうした読み方をめざします。

淡々と、さりげなく、なにげない読み方の方が、装飾過剰な音声表現よりは、より過剰な意味内容を立ち上げ、聞き手の心にじんわりと染み入む読み方となります。静かで、緊張に富む教室内の方が、いつのまにか引き込まされてしまっているような読み方になります。強調や誇張で、きらびやかに飾りすぎないようにします。ひたすら文章内容が要求するものだけを、どう音声に素直にのせるかに意識を集中して音声表現させます。

表現よみは聞き手ゼロの読み方です。ゼロとは、ナシということではありません。聞き手意識はあります。アルけれども、それは前面に出てはいません。背後に退いています。つまり、聞き手アリ、そしてナシの境地で音声表現するということです。アルといえばアル、ナイといえばナイ、アルとも言えないナイとも言えない、そんなきわどく重なり、微妙に離れている、そんなゼロ地点の運動境地で音声表現するしかたです。

現在の国語教育の現場で説明文の授業がどのように行われているのか知りたい。Googleで検索したら、向山型説明文指導というのがたくさん見つかった。結構、良さそうに見える。でも、忙しそうな授業だ。