あかみさんとshiroさんのご意見を読んで、私の考えがごっちゃになっていたと気づきましたので修正版を書きましたオリジナル版の下にあります。
オリジナル版
先生は教え子に認められなければ先生になりえないけど、表現者はたとえ世界の誰からも認められなかったとしても表現者だと私は思っています。表現の定義が「適切かどうか/良いかどうか/正解かどうか分からない事柄についての発言」であろうが、「自分と世界のずれ」だろうがそれは同じ。
表現者は外部の干渉なしに存在意義を決定する事は不可能で、
他者の存在があって初めて表現者としての存在意義を確立する事が可能になるのだ。
ご意見いただけてとても嬉しいけれども、私はそう思いません。ほぼ、言葉の定義になってしまいますが、表現者の存在意義はただ自分の外に問いかけることのみ。自分の外に問いかけられない人はいくら才能を持とうが葛藤を持とうが表現者じゃないでしょう。
「じゃあ、世界にたった一人だけになっても表現すんのかよ?」と問われるかもしれませんが、するでしょ。もちろん、自分の表現を評価してもらい、みんながその表現を誉めてくれればよりやる気がでるとは思いますが、それはあくまでも増幅器としての効果じゃありません?
表現でお金をとっているプロフェッショナルの人たちは、自分の表現と外部からの評価をうまい具合にとりあっていることは確かなことですが、外部からの評価とうまくつりあえない人もやはり表現者だと思う。くずな表現しかできない人だって表現者は表現者。
表現をすることと表現が評価されることは切り離して考えるべきだと思っています。
修正版
私が主張したいのは、「表現を行うこととその表現が評価されること」は切り離して考えましょうということ。評価されないならば表現者であってはいけないというのが、「適切かどうか/良いかどうか/正解かどうか分からない事柄についての発言」を止めさせる原因であると思うのです。
表現者は外部の干渉なしに存在意義を決定する事は不可能で、
他者の存在があって初めて表現者としての存在意義を確立する事が可能になるのだ。
あかみさんとshiroさんに指摘されてやっと理解できましたが、上で述べられているのは、表現を行うのには自分の「外部」が絶対に必要であり、自分だけでは表現は生じないということを言いたいということなのですね。そうであるならば、その意見に賛成です。外部がない人は表現をする必要がないですし。
私が上のオリジナル版を書いたのは、「存在意義」という言葉がひっかかったからです。この「存在意義」とエントリーの内容(詳細には理解できませんでしたが)に「評価されないならば表現者であってはいけない」という意識があったように感じ、また、それがまさしく私の問題意識だったのでもう一度自分の主張を明確にしたくなりました。
私の考えをまとめると以下のようになります。