やりきれない気持ちを誰かにぶつける文化?

ソースはないけど、テレビ朝日スーパーモーニングでの話。亀田選手のWBAタイトルマッチに関して、TBSに抗議の電話が殺到したそうで、TBSの回線もパンク状態だったとのこと。それで、幾人かの人間は、なぜかテレビ朝日に抗議の電話をかけてきたそうだ。理由は「このやりきれない気持ちをどこにぶつけたら良いのかわからないので」とのこと。

いろいろなことに納得できずやりきれない気持ちを持つことは誰でもしょうがないけど、それをとりあえず誰かにぶつけなければならないっていうのは、あんまりにも子供な発想じゃないかと思う。やりきれない気持ちは、なんらかの形で解消しなければならない。そのうちの一つ(あるいは唯一の方法)は、やりきれない気持ちを誰かにわかってもらうことだとは思う。でも、この誰かが誰でもよいかどうかは、大人だったらよく考えないといけない。なぜ、やりきれないのか?このやりきれない気持ちは何に由来するのか?これを分析した上で、わかってもらう相手を見つけるのが大人のマナーだと思う。

やりきれない理由を特定して、それを解決できる見通しがあるのならば、解決に協力してもらえる人にこの気持ちを説明してわかってもらうべきだし、特定した理由が解決できそうもないのであれば、自分の愚痴を聞いてくれる知人に頼んで共感してもらうようにするべきだ。基本的に相手の同意が重要で、一方的にやりきれない気持ちを投げつけられても困る。「やりきれない気持ち」や、「やり場のない怒り」を覚えることと、それを「誰かに伝えて変革や精神の安寧を得る」という行為の間に、理性をもって「誰に伝えるべきかを考える」ことをしなければならない。大便や小便はトイレで出すという社会的規約ができている現在、次は、精神的排泄物である「やりきれない気持ち」や、「やり場のない怒り」をある規約に乗っ取って処理できるようにならなければ、不快で、精神的に不衛生な社会ができあがってしまうに違いない。