健全な肉体の基準はどこか?

「健全な肉体に健全な精神が宿る」

良く聞く言葉ですし、私もこの言葉に一理あると思います。ただ、この言葉は誤訳のようです。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/intro_juvenal_intro.html

健全な肉体と精神
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/tukihara/science/n0002.htm

閑話休題

仮に誤訳であったとしても、ここまで膾炙した言葉である「健全な肉体に健全な精神が宿る」は、それを使う人にとって
何かしら納得できる言葉であったのだと思います。

私にとっては、非常にシンプルな経験からこの言葉が正しいと感じるようになりました。そのシンプルな経験は、偏頭痛と肩の脱臼です。

偏頭痛は、ある日突然、発生する頭痛です。発生原因はわかりません。私の場合は、頭痛が始まってから終わるまで、2時間くらい。その後、吐き気が1時間くらい。吐き気が終わっても、頭を動かすとズキンと痛みが走るというものでした。痛み止めをうまいタイミングで飲むと頭痛と吐き気をあわせて1時間半くらいで終わるのですが、とりあえず長い時間苦しむわけです。
このとき、すごく心が荒みます。分けも無く他人に対して害意を持ってしまうのです。自分が苦しんでいるときに、他人が苦しんでいないという、ただそれだけの事実に怒りを覚えてしまうのです。
同様に、肩の脱臼も肩をはずしてから整復するまで激痛が走り、整復した後も、常に鈍痛が2週間くらい続きます。このときも、非常に心が荒むのです。

でも、両方とも偏頭痛が起こっていないとき、肩の脱臼をしていないときは特に怒りの気持ちは起こりません。明らかに体の不調が心の調子を崩しているのです。この経験から、「健全な肉体に健全な精神が宿る」は一理あるなと思うのです。

ただし、私の納得の仕方は「健全な」という言葉を辞書どおりに捉えていません。

広辞苑 第5版によれば、
けん‐ぜん【健全】
(1)心身ともにすこやかで異常のないこと。たっしゃ。
(2)ものごとに、欠陥やかたよりがないこと。堅実であぶなげがないこと。「―な娯楽」「―財政」

との事です。私にとっての健全とは、(1)の意味を極私的に解釈し、通常の状態=健全、怪我や病気により通常とは違う状態=不健全、と捉えています。つまり、私にとって通常の状態が心身ともにすこやかで異常のない状態なのです。

実際には、私は視力は0.1を切っていますし、肥満しています。肩も両肩脱臼しているので、外れ易くなっています。ですから、人類全体の絶対基準からすると、健全でない可能性もありますが、私にとっては、それが通常のことなので、まったくもって健全です。つまり、私にとっての健全の基準は「いつもの私」であることで、「いつもの私」でなければ、不健全になるのです。このような「健全」の捉え方において、「健全な肉体に健全な精神が宿る」は、正しいと感じます。

私の感覚に順ずるならば、「自分にとって健全な肉体に健全な精神が宿る」が、最もぴったりする言い方になります。