価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない

卒業していく君へ。

卒業おめでとう。本当は面と向かって言ったほうが良いのだけど先生という立場だと私の発言が思った以上に重くなってしまうので直接君にはいえない。でも、君への言葉を一度形にしておかないと私の頭に一生こびりつきそうなのでここに書かせてもらうよ。

今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。

君が雑談ならば私とも明るくおしゃべりできるのに、研究の話となった瞬間に凍り付いてしまうのは、雑談は自分の感情をベースに話せるので自信を持てる(自分の感情だもの、正しいも正しくないもない)のに対して、研究の話は自信がないからだよ。

どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。君は、自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。君が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準なんだ。

もちろん、「良く出来る自分」というものをきっちりと咀嚼し、自分の精神的な背骨にしている人は大勢いる。でも、君のは、「他人が君をどう思うか」という基準なんだ。精神的な背骨として使えるのは「自分が自分をどう思うか」というものなんだ。ざっくり言えば、他人が君のことをかっこ悪いと思っていても自分が自分のことをかっこよいと思っていれば動じないというもの。何をもってかっこよいとするかは、親の見方、彼女の見方、友達の見方、小説内の見方、アニメの中での見方など何に由来していてもかまわないのだけど、自分が咀嚼しているのが重要。自分が咀嚼しているならば、周りの環境が急に変わっても、自分の背骨は急には不安定にならない。

私の判断基準の基礎は両親が作った。その基準をベースに、読んだ本、小学校・中学校・高校の素敵なあるいは面白い、個性的な先生達、見たテレビ番組、体験したいろいろなことをミックスして私の背骨はできている。大学での私の指導教員の発言や考え、教えも今や立派に私の背骨の一部だ。いまでは、自分が研究を進めるとき指導教員の声が聞こえてくるくらいだ。「それは何の意味があるの?」「それの定義は何?」とか。私の美醜の基準は、明らかにいままで読んだ小説や漫画に由来しているよ。

精神的な背骨がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できる。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないけどね。でも、一度背骨を作り上げている人ならば、背骨自体を強化したり、変更したりできるので案外タフだ。

一方、精神的な背骨が無い人は、いかなる間違いも許容できない。なぜならば、判断基準は外にあるためどの間違いが自分に致命的でどの間違いが自分に致命的でないかが判断できないから。だって、判断するのは他人。完璧に振舞いたいのだけど、どう振舞えば完璧かわからなくなり、自信が無くなり、自分が嫌いになる。まるで、プライドを殻にした甲殻類みたいになるんだ。判断基準は外にあるので、自分が取れる選択肢は「他人に嫌われないようにする」「他人にかっこ悪いと思われないようにする」「他人にできない奴とみられないようにする」というものしかない。強化も変更もできないんだ。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。

だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。

君が背骨を手に入れる手助けをしきれなかったことに悔いが残るが、この研究室で卒論をやった経験が数年後に役にたつことを祈っている。君が新たな場所で新たな師匠に立派に鍛えてもらえますように。さようなら、お元気で。

追記2

みなさまに様々な読み方をしていただいて、本当にありがたく思っております。ただ、一点訂正させていただきたいことがあります。私は「教授」でなく「助教」です。

准教授や教授はもっと経験を積んでいますので、さまざまな技を持っております。私の考えや発言は大学教員の中の比較的若造のものであるということをお含みおきください。

追記3

自分なりの価値基準を作り上げて元気にやっているようでした。よかった。

私達って物事あいまいにしておくの案外苦手じゃない?

半径5mの話でごめんなさい。ここ一、二年ずっともやもやしていたんで愚痴らせて。

日本人ってよく物事をあいまいにしておいて、白黒はっきりさせるのが嫌いと言われるけど、どうも私の感覚とは合わない。私はむしろ日本人は物事をあいまいなままにしておけない、白黒はっきりさせるのが異様に好きという気がしてならない。特に集団のとき、それが顕著なように思う。

私は、私達日本人は、ある事柄について判断しなければならなかったとき、必ず白と黒(良い、悪い)に分けてしまう傾向があるのではないかと思う。現実は結構複雑なので、ある事柄のある側面については良い、別の側面においては悪いと一つの事柄について白とも黒ともつけられないグレーの状態があるはずなのに、どうもかっちりと白黒つける。食品偽装、政治問題、経済問題、労働問題、教育問題。いつも、悪役がいて、そいつを倒せば世界がよくなるみたいな感じを受ける。背水の陣好きもこれと似たような感じを受ける。勝つか死ぬか、あるいは戦わないかだけ。負けるけど死なない、勝つけど勝ちすぎないなどの評価が難しいような状態を好まない。

それで、我々は物事の判断をするときには白黒はっきりつけなくては他の人間から非難されることを知っているので、極力物事の判断をすることが無いように試みる。物事の判断結果あいまい(グレー)にするのではなく、物事を見ない・知らない状況におき、判断自体を無くしてしまう。そして、日本人は文化的にこれが得意だ。部屋を区切るのではなく衝立で隔てる(音が聞こえてきても聞こえないように振舞う)。舞台に黒子を出す(黒子は見えないもの)など。

この判断自体を無くしてしまうことを指して「物事をあいまいなままにしておきたがる」というのだけど、全然、あいまいになっていない。これはその物事を無いものとして扱っているだけ。真のあいまいな状態、すなわち、ある物事が良い面と悪い面が拮抗している状態を好むことはないように思う。

その結果、もっとも汎用性が高く、多くの人に支持される言い訳が「気が付かなかったので」「忘れていたので」あるいは「知らなかったので」。私も思わず使ってしまうが、学生が提出物を出さなかったときの言い訳 No. 1がこれ「提出物があるのを知らなかった」「締切を知らなかった」。知らなければ免責というのが処世術のレベルまで高まっているような気がする。

逆に責任ある人、たとえば政治家、教員、官僚、皇室ご一家などには完全無欠であることを求める。女にだらしないけど財政に関しては超一流とか、みすぼらしい格好しているしスピーチはさっぱりだけど教育行政は抜群とか、マイナス点とプラス点が同居している人間を認めないようにしているように見える。はっきりいって、今の不況から脱出させることができるならば、自堕落で不倫しまくりで隠し子100人いる政治家だってかまわない。不道徳なことの責任はその人の私生活でとればよいものであって、政治の場ではどうでも良い。

司法取引や航空機などの事故調査のやり方、クリントン元大統領に対する取り扱いなどを見る限り、アメリカ人はイメージと異なり案外グレーな存在を許しているように思う。フランスの今か先代の大統領の不倫疑惑のときも大統領辞めなかったし。ふりかえって、日本の宇野元首相は…。

あいまいなことを許容できるというのは大人の振る舞いであるので、あいまいなことを許容できるようになりたい(何でも白黒つけないと嫌だという幼児的振る舞いをしたくない)。物事は必ず良い面と悪い面を持っており、その時々の状況によりどちらの面が影響を与えるのかが変わる。怠惰にならず、そのときそのときで判断できるようになりたい。

まとまらないけど、このへんで。