ラジオクラウドでライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフルの「手話はひとつの言語である!特集(2017.6.24放送)」を聴いた。で、一部の言葉の使い方にひっかかったのでメモ。
ひっかかったのは自然言語と母語の関係。
斉藤:「自然言語」というのはものすごく大事な概念だと思います。つまり、「人工的に作ったものではない」ということですよね。だから、「インディアン、嘘、つかない」っていうああいう言い方はですね、まだ言語になりきっていないという意味で、違う言語の人同士が出会って作っていく、合成していく言語っていうのが、これがひとつあるんですけども。それはまだ、十分な言語とは見なされていないんですね。それに対して、十分に我々の使っている日本語とか英語と同じような形になった言語というのが、自然言語なんですけども、手話も……日本手話もアメリカ手話もそれぞれに自然言語であって違っているという、そういう世界です。
〜中略〜
斉藤:で、そういう風にして、いつの間にか覚えちゃったという、そういう言語が「母語」と言われるんですよね。mother tongueっていうやつですけども。つまり、これが私がいま使っている日本語。まあ、自由に使える。何を言われても、一応受け答えができるというか、考えずに使える言語ですね。
宇多丸:考えずに。なるほど。
斉藤:自然に出てくる。呼吸のように出てくるっていう、これが自然言語の世界ですね。母語と言われるものですね。これが手話も、昔からろう者が使ってきた手話というのは、こういう風な自然言語なんです。
〜後略〜
母語の説明には賛同。でも、後段の「呼吸のように出てくるっていう、これが自然言語の世界ですね。」というのは説明端折り過ぎだと思う。ろう者の赤ちゃんの周りに手話の使い手がおらず、ろう者の赤ちゃんに手話で話しかけなかったら手話を母語として修得できないと思うのだけど。
時間を作って、この特集の元とのなった本を読んでみることにしよう。
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