日本の大学の教員に海外の人材がいないという指摘はそのとおりだと思うけど他の分析はどうなの?
わが国から発表された論文では筆頭著者の7割(若手研究者が筆頭の場合)から9割(シニア研究者が筆頭の場合)が日本生まれであるのに対して、米国の場合には自国生まれは4割から5割と低い。研究を着想するための知識源としては科学論文が最も重要だが、米国では国内で発表された論文という回答がおよそ8割であるのに対して、わが国では国内論文を重視する割合は1割程度に過ぎない。一方わが国では、国内の知識源として産学連携の相手や所属機関の同僚など、人に関連する項目が重要とされた。
米国が外国生まれの科学者を受け入れ活発に競争させているのに対して、わが国は日本人科学者に偏っている。とりわけ、わが国には外国生まれのシニア研究者はいない。わが国の研究者は国内人脈をそれなりに大切に扱っているが、国内で発表される論文は相手にしていない。よい成果が出れば米国の学会に論文を提出するというのが実態である。
国内に組織された学会は日本人科学者の交流サロンに過ぎず、最新の学術成果を競う場ではない。競う場でなければ外国生まれの若手科学者を引き付けられるはずはなく、その結果、国内学会はますます国内化して活性度は下がっていく。一方、米国にはよい論文が集まるので採択を目指す競争は激化し、その結果、米国の学会に占める日本からの論文の比率は年々下がっていく(備考)。
調査対象は物理学、化学、生物学の被引用数トップ1%の論文の話。この分野のトップレベルの論文は当然英語。英語が母国語たる米国でかつ、論文数の40%がアメリカであることから考えれば、そりゃ論文を海外に投稿するでしょうに。内容が同じものについて英語と日本語の二重投稿を認めていないのだから、日本の学術誌に論文を投稿しなくなるのはしょうがない。
英語の学術誌や国際会議に投稿することによって世界の研究者に日本の研究者が良い研究していることをアピールし、そのような研究者を輩出する日本の環境の良さも合わせてアピールしていると解釈する方が自然だと思う。日本の学会が国内化すると、海外の学術雑誌や国際会議への投稿数が下がるという理屈はさっぱりわからない。
日本の大学に海外の研究者を招へいする話については、その研究者に働いてもらうためには職場の標準語を英語にする必要がある。そして、もしその研究者に若手研究者の指導をしてもらうならば、授業の標準語も英語になる。科学者個人のサバイバルの観点からすればこの環境は理想だろうけれども、日本という国でみたときにこれが良いのかどうか。
特に原発事故などにより科学・技術の専門家と非専門家の間に断絶が意識されるようになった現在、専門知識を学ぶ際に「英語学習」という障壁が用意される状況になるのが果たしてよいことなのかどうか。
中国や東南アジア諸国は大学の専門科目の多くで英語の教科書(米国の大学で使われている教科書をそのまま)使っていたりする。日本は幸い人口数と先達の努力により専門書や概念の日本語化をしてきたけれども、今後それをしないようにするという選択をしたとき、その国の言語では存在しない専門用語を使って非専門家とコミュニケーションすることになると思う。そのときは、適切なコミュニケーションをとれるのだろうか?
最後は横にそれた。横にそれた問題については前にもいくつかエントリーを書いたことがある。