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研究成果報告書としての論文の活用と日本語訳について

英語で発信する数理科学者たちを紹介した記事リヴァイアさん、日々のわざ:英語で発信する数理科学者たち(数理科学は日本文化から切り離されてしまう)Twitterの#f_o_sに投げたら、結構いろいろな反応があった(Togetter:英語論文を主たる発表媒体とする研究者は日本語研究情報を提供したほうが良いか?

私も同じ問題意識を覚えており、昨年の事業仕分けのときに明日から始める情報発信というエントリーを書いた。

まず、私の認識は以下のとおり。

英語論文が当たり前の分野の研究者たちがむしろ国内に情報発信していないのが問題で、どうして問題かというと研究の原資が税金だからです。そして、最大のスポンサーである国民の大多数が英語の文献を読めません(読みたくありません)。なので、日本語文書が必要という理屈です
Twitter:next49

一方で、これに対する反論でとっても納得できるのが以下の意見(いつも反論相手のやり玉にあげてごめんなさい。でも、とっても端的に問題点を指摘されるのでつい)。

残念ながら、あまり研究者に「日本語で発信しろ」と要求することはお勧めできない。なぜなら、欧米の研究者は英語で発信しても一般向けとみなされうるから。あまりそういうこというと日本人の研究者に欧米の研究者にはない負担を増やして足をひっぱるだけだということを認識すべき。
Twitter:Yh_Taguchi

いやむしろ、欧米に比べて余分な事やらせるんだから欧米より余分に金だせってこと。例えば、鹿野さんに金払ってやってもらうなら賛成(笑)。RT .@sikano_tu: 日本の一般人に研究内容を知らせるのはめんどくさいからやれやれ言うなって事?
Twitter:Yh_Taguchi

そもそも「非専門家(非専門科学者)向けの情報発信」が片手間でできると思っている事自体が大きな誤りだと個人的に思う。科研費報告書の公開は非常に意味あるけど、非専門家が読むのは難しい。せめてNatureのNews & Viewsくらいには噛み砕かないと無理だと思う。
Twitter:Yh_Taguchi

この意見には全面的に同意。研究成果は世界に対する貢献なので、研究成果はデファクトスタンダードである英語論文で発表すべきだけれども、一方で、事業仕分けでみられるように「日本の税金で行っているのですから、日本に貢献していないとダメでしょ?」という主張もそれなりの説得力を持つのは事実。この意見の流れででてくるのが、以下のような主張。

国から1千万円の研究費をもらったら年1回、子どもや市民に自分の研究をわかりやすく説明する――来年度以降、研究者がこんな必要に迫られる可能性が出てきた。

政府の総合科学技術会議の調査会で2011年度から始まる科学技術基本計画の素案が示され、「1千万円以上の研究費を得た研究者には、小中学校や市民講座でのレクチャーなどの科学・技術コミュニケーション活動への貢献を求める」との文言が盛り込まれた。

発表する研究論文には、一般向けにもわかりやすい数百字程度の説明を添付することも求める。内閣府津村啓介政務官(科学技術担当)は「これから研究費を交付する方にお願いすることを考えている」と話し、具体的な制度の検討に入ったことを明らかにした。

内閣府によると、英国では一部の研究費で1年に1回、一般向けに内容を説明することを求めている、という。3月に大阪で開かれた総合科学技術会議の地方開催で傍聴者から、こうした制度の導入の必要性が指摘され、検討するきっかけになった。

文部科学省の科学研究費補助金だけでも、年5万人の研究代表者に平均300万円支給され、データベースによると1千万円以上の支給が採択された研究が年間1万件前後あり、対象は相当数に上りそうだ。

昨年の事業仕分けで科学事業に厳しい判定が相次ぎ、科学界からは反発を招いた。津村政務官は「科学者と国民のコミュニケーション不足を痛感した」といい、「民主党の科学政策が見えないとの批判があるが、面白いアイデアはすぐに実行に移している」とアピールしている。(行方史郎)

ここまでいくと負担が激しい。研究者が会場にいってプレゼンテーションをするだけならまだしも、対象人数や文科省学術振興会の人員数からして、説明会の開催の手はずを含むもろもろの作業は所属機関および研究者自身がやらされることになるのは明らか(科研費の報告会も自前開催のはず)。これはきつい。宮川先生のResearchmap:宮川剛:研究費申請書・報告書の簡略化の具体案や田口先生の意見にあるとおり、研究者が申請書や報告書に割く時間をできるかぎり短くするのがとても重要だと思う。「角をたわめて矯めて牛を殺す」になってしまっては本末転倒。

また、そもそも論文というのは信頼性の高い研究成果報告書そのものであり、これに多大な労力と注意力を使って書いているのだからこれを持って報告書としたいと思うのが研究者の常識的発想。でも、多くの場合、論文そのものを読めは報告書の提出と認められない。論文がその分野の研究者以外にとって読むのがきついのは以下の理由。

  1. 想定読者が同分野の専門家向け
    • その分野の大前提となる知識は記載していない
    • その分野の人たちに通じる専門用語を使っている
  2. ページ数制限があるので、他の文献で述べられていることは参考文献を挙げて省略してある
  3. (英語論文の場合)日本語でない
    • 日本語ではその専門用語や概念を知っていても、それに対応する英語を知らない
    • (英語が不得意の場合)日本語よりも英語の読解が難しい

また、上記のように論文を読むのが難しい結果、読む時間がかかるのでそんなもの読んでられないので非専門家にもわかるように書けという話になる。

でも、難しい理由の「想定読者が同分野の専門家向け」というのを「想定読者を非専門家向け」としてしまうと、報告書の分量は途端にその分野の一般入門書、大学生学部向け教科書、大学院生向け教科書の3冊ぐらいの教科書ぐらいになってしまう。スピードが重要な研究において、毎回、科研費受ける度に教科書を書くのは本末転倒。しかも、研究者ごとにそれを書くのは非効率。そして、そこまで書いても読む人がいるかどうかわからない。

そこで私が提案したいのは以下の2点。このぐらいで研究者の研究報告の義務を勘弁してほしい。

  1. 論文の概要のみを和訳し、それと論文をセットで報告書とする
  2. 概要の和訳はオープンアクセスとする

これに直接的な反論は以下のもの。

日本語の論文があったとしてもほとんどの人は理解出来ないのでは?だとしたら問題は要するに一般の人へ向けた文章があるかどうかであって、言語が日本語であるというのはものすごく初歩的な必要条件に過ぎないのでは。
Twitter: kururu_goedel

私はこれに関しては以下のように考えている。

  • 毎年、18歳人口の半分弱が大学に進学しているので、思いの他日本語の専門文書は読みこなせる人間は多いはずである
  • 非研究者が気軽にざっとどんなことがやられているのかを眺めるためのコストは研究者側が下げるべきである
  • 非研究者が詳しく研究成果を知りたいと思ったならば、元の論文を読めるように勉強すべきである

論文の概要にはキーとなる概念や方法が記されているはずなので、それが和訳されていれば、あとはその概念や方法が詳しく解説されているサイトや書籍を探すことができる。普通に先行研究調査をするときでもそうだけど、論文のほとんどはタイトルと概要だけしか読まれない。ならば、その部分だけを和訳しておいてあげれば、論文の使用目的のほとんどは満たしてあげることができる。論文がたまたまその人にとって有用で、中身を詳しく読みたくなったならば、有用なのだからコストを払って読んでもらえばよい。研究者も、非専門家もトリのひなのように口をあけて誰かが餌をもってきてくれるのを期待するのは双方にとって不幸なので、双方歩みよればよいというのが私の意見。