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安心して自分の思いを口にできるようになるために

発声練習 研究 メモ

リチャード・ラール曰く「問題を考えるな解決法を考えろ」ということなので、安心して自分の思いを口にできるようになるためにはどうすれば良いのかを考えた方が生産的だ。

自分の経験やこれまでブログで書いたことに対して得たコメントや反応から考えると、個人がどうのこうのという問題を越えて、システムとして自分の思いを口にすることを否定することが確立されているように思える。社会では自分で考え、意見を述べる人材を欲しがっていないというけど、一定の需要があるのは確かだからそういう人材を生み出す仕組みを用意するべきだ。

自分の思いを口にするには3つぐらい段階があると思う。

  1. 素朴に疑問に思ったことを口に出せる
  2. 正解がない事柄に対して自分の主張を述べられる
  3. 他人に自分の主張が正しいことを説明できる

一つ目の「素朴に疑問に思ったことを口に出せる」については、以前にエントリーにまとめたことがある。内容は、大人は必ず答えを知っているはずだとして振舞う子ども達をどうすればよいかということ。

「正解がない事柄に対して自分の主張を述べられる」というのは、みなさんに愛されたエントリーの価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないで書いた。うまく書けていないけど。この段階ならば理由は、最終的には「私が好きだから/嫌いだから」でも、良い。口に出せることが重要。

この二つをクリアした後に「他人に自分の主張が正しいことを説明できる」段階が来ると思う。正直いって、最近5年間くらいの卒論生は第一段階の「素朴に疑問に思ったことを口に出せる」ができれば上出来、「正解がない事柄に対して自分の主張を述べられる」ができるならば優秀という状況。私が学生のときを思い出すと「素朴に疑問に思ったことを口に出せる」をクリアできていたけど、正解がない事柄に対して自分の主張を述べられる」は先生の指導がなければできなかったと覚えている。

可能ならば、上記の3段階まで大学3年生の段階でクリアーして欲しいけど、現実では無理。せめて、第二段階までは大学生までにクリアして欲しい。そうするにはどうすれば良いかといえば、Shiroさんのご提示が重要だと思う。

表現にはスキルが必要で、それは自分から表現してみることで伸びて行く。もちろんちゃんとした指導も重要で、作文教育で体系的なスキルの教授が行われてるかってとこにも問題はあるだろうけれど、別の側面として、表現教育の場の問題もあるんじゃないか、という気がした。

どんな演技のワークショップでも稽古場でも、大前提となっていることがある。それは、「基本的なルール(自分や他人に危害を及ぼさない、等)を守る限り、そこで何を表現しようが許される」という安心感と一体感をその場に作ることだ。出した表現はもちろん後から批評を受けるけれど (そうでないと改善できない)、それはあくまでよりよい表現をするための建設的な意見であって、人格批判ではない、ということをすっと信じられるだけの空気が必要だ。これはあまりに当然のことで、わざわざ言わないインストラクターやディレクターも多いけれど、演技にかかわる者の間ではほとんど常識に属する話だと思う。

役者という、人前で表現をすることを自ら選択した者にとってさえ、表現することはとても怖いことなのだ。少しでも萎縮するような要因があると、灯りかけた表現の種火はすぐに消えてしまう。種火が、少々の風では消えないくらい力強い炎になるまでは、慎重に守ってやる必要があるのだ。参加者全員がその恐れを乗り越えることが出来てはじめて、表現について取り扱う準備が整ったことになる。

プロの役者でさえそうなんだから、学校の生徒ならなおのこと、表現をしようとする最初の段階での安心感がとてつもなく重要なのではないか。

  • 最低限のルール (人格攻撃をしない、とか) を守っていればどんな表現も許される、
  • 表現したものに対する評価は、表現そのものの良し悪し (感じたことをどれだけうまく表現できたか)についてのものであって、感じたことそのものについての評価ではない。

ということがはっきりしていれば、生徒もずいぶん楽だと思うのだ。もっとも小学生にこういうルールを(頭ではなく、体感として)わかってもらうのは相当難しそうだ。高校生くらいなら何とかなるかもしれないなあ。

今は、こういう場が大学に来るまでに設けられているかが疑問。でも、こういう場の重要性というのはとても理解できる。国語の授業のときに私の思いを否定されたのは今でも覚えている(参考:外国語で発想するための日本語レッスン

また、小学校のカリキュラムとして導入するならば、国語よりも美術の方が良いと思う。

作品から感じられるものは、多種多様です。その作品が持つパワーや、味わい。歴史的な文脈から、何か崇高なものを感じるかもしれません。あるいは、昨日サンマを食べたから、作品のサンマに興味が行くのかもしれない。それらは、私たち一人一人が持つ経験によって育まれた「感性」に左右されるものです。感性とは、どうしようもなく、他のあり様ではなく「そう」体感してしまう、ということです。これが即ち背骨ということではないでしょうか?そういった背骨も、経験と、自身の背骨を確認し、確信/修正していくプロセスを必要としていて、美術教育はその一環になり得る。

上記のエントリーに書かれている美術鑑賞というのは本当に重要なことだと思う。このように正解がない自分の思いを他人に分かるように説明する訓練というものは、創造的活動のベースとなる重要なものだと思う。外国語で発想するための日本語レッスンにもどうような教育がヨーロッパ語圏内で行われている旨が書いてあった。

本来は家庭がこのような姿勢を育てるべきだが、今の日本の現状(核家族化、長時間労働、サービス業への移行)などを考えると、各家庭でこのような教育を行うのはしんどい。小学校や中学校で芸術鑑賞と国語の授業を題材として、この姿勢を教え、高校あたりから本格的に自分の主張を述べられるように訓練した方が良いと思う。そういう意味でも新しい学習指導要領には期待したい(国語を学校で教えることに異存はないけど、内容には意見がある)。