世のお母様方・お父様方にちょっとアドバイスもらいたい

あらきけいすけの雑記帳:いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由を読む限り、あらきけいすけさんと泥酔するまで酒を酌み交わせそうな勢いですが、ちょっとメモして置きたいのはそのコメントにあるid:pollyannaさんのコメント。かなりぞっとしました。

「ジャンプしてごらん、受け止めてあげるから」と教師が腕を広げているのに、そこに学生が飛び込めずに足がすくんでしまっているような状況が、つらいなあと思いました。

無条件に受け止められる経験、失敗は失敗として人格とは切り離して評価される経験が、もしかしてそういう学生さんには足りていなかったのかもしれませんね。
学校もですが、親子関係にも根はあるかもしれない、と思いました。

失敗しても叱責されても、自分の全人格が否定されたとまでは思わない“強い”(ある意味鈍感な)人が研究業界を目指し、生き残っていたのは昔の話で、今はそういった“強さ”(鈍感さ)をまだ得ていない人も大勢研究業界を目指しているというあたりで、なにかしらコンフリクトが生じるのかもしれません。

企業をはじめとする一般社会でも「自分でものを考えられる」人材を求めているはずで、こういった摩擦は起きても良さそうなものですが、なぜかそこまで目立ちません。
昔ながらの企業(私がかつていたところもそうでした)は疑似家族のようなもので、親・祖父母・兄弟・おじおばなどになぞらえられるような奥行きのある人間関係の中で、「受け止められる経験」「失敗しても誰かは自分を認めてくれる経験」を再体験でき、新入社員は無理なく成長していけるのかもしれません。

その点、研究室だと、どうしても指導者と学生の一対一の関係になってしまうため、たとえていえば母子密着のような問題が起こりやすいのかなあ、などと思ったりしました。

この件で教員の皆さんが責められているのをみると、子供の育ち方の責任をすべて母親に押しつけるような構図と似たようなものを感じ、たまらず出てきた次第です。

実は、私もそう思っていました。私の場合は密室保育というキーワードが頭に浮かんでしょうがなかったのですが。あらきけいすけさんも追記で述べられているように

この関連で、今回の増田氏と next49 氏のエントリに共通して見られるひとつの特徴が気になって仕方ありません。それは「先生と学生」という垂直な関係のロールモデルだけが、学問、学習のプロセスのエピソードの中に登場し、「学生どうし」のような水平型のエージェント間相互作用の話がきっかけすら出てこないことです。

というのも最近顕著に感じています。同僚の先生方と飲んだときにも大体このような話題になります。曰く「最近の学生は助け合わない」と。

私は大講座制(教授と准教授がそれぞれ研究室を持つ)における助教ということもあるので、研究室運営においてはジェンダー的にお母さんの役割を負わざる得ない状況にあります。教授は対外的な仕事&研究資金獲得(私もやりますが)&学生の研究に関しては方向性に関する指導を担当し、私が研究室運営の細かいところと学生の細かい指導を担当しています。

就職してびっくりしたのが私の振る舞いが研究室における「お母さん」になったことです。たとえば、「ゴミはちゃんと捨てろ」「研究室の下駄箱はちゃんと綺麗にしろ」「研究室はちゃんと掃除しろ」「先生に会ったらちゃんと挨拶しろ」「卒業・修了に関する提出物はちゃんと確認しろ」「先生に指導してもらったらちゃんとお礼を言え」などなど。まさしく、イメージ上の口うるさい「お母さん」なのです。われながら笑ってしまいました。(銀河英雄伝説でいえばムライ少将という感じですか)。

今年で助教になって4年目ですが、着任して2年目まではまさに子育てノイローゼみたいな状態になっていたのではないかと思います。「私がこんなに心配しているのになんでアンタはそうなの!!!」

3年目以降は、私の中で諦めというか、悟りというか「一生懸命指導したからといって恨まれるだけだよなぁ」という感触がでてきて、ある程度指導を抑えるようになってきました。それでも昨年はどうやったら卒研を失敗できるか:他人の話を聞くのをやめるを書いてしまうまで追い込まれました。今年はその教訓を生かして、いろいろとやってみたのですが、価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないという結果です。

どうやれば教員と学生の母子密着を防ぎ、双方がにこやかに過ごせるのか(たまに怒鳴りあっても良いとおもいますが)子育て経験のあるお母様方、お父様方にお伺いしたいです。独身なのに毎年子育てしているような気になるのはどういうことなのでしょう。(期間限定子育て代理