「正しく恐れる」の出典

「正しく恐れる」という言い方は寺田寅彦の以下の「正当にこわがる」が出典らしい。

十時過ぎの汽車で帰京しようとして沓掛くつかけ駅で待ち合わせていたら、今浅間からおりて来たらしい学生をつかまえて駅員が爆発当時の模様を聞き取っていた。爆発当時その学生はもう小浅間こあさまのふもとまでおりていたからなんのことはなかったそうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけていたが、爆発しても平気でのぼって行ったそうである。「なになんでもないですよ、大丈夫ですよ」と学生がさも請け合ったように言ったのに対して、駅員は急におごそかな表情をして、静かに首を左右にふりながら「いや、そうでないです、そうでないです。――いやどうもありがとう」と言いながら何か書き留めていた手帳をかくしに収めた。
 
ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。○○の○○○○に対するのでも△△の△△△△△に対するのでも、やはりそんな気がする。
青空文庫 寺田寅彦:小爆発二件より)

で、これ読んで非常な違和感が。

駅員が示した「おごそかな表情」がポイントだ。「おごそか」は、厳粛なさま、心が引きしまる様子である。仮に、学生がこわがらな過ぎるとして、駅員はこわがり過ぎているとして対照されているだろうか。そうは思えない。それならば、「ひどく驚いた表情で」とか、「びくびくして」とか表現されるはずである。

「おごそか」は、「こわがる」が、自然(火山噴火)に対する「恐れ」というよりも「畏れ」を表現していると見るべきだろう。また、「正しく」ならぬ「正当に」は、科学的な基準に照らした場合の「正しさ」を表示しているのではなくて、畏れることの「正当性」や「権利」を意味していると解釈すべきである。そもそも、現代社会とは、「正しさ」が大きく揺らいでいる「リスク社会」だとの認識もここでの議論を後押しするものだ。

その意味で、「正しく恐れる」は、「正当にこわがる」の真意を逸しているし、ポスト3.11にとってふさわしい導きの糸とはなりえないように思われる。これは、科学技術コミュニケーションにフォーカスするCoSTEPにとっても、看過できない論点の一つであろう。
CoSTEP:「正当にこわがる」/「正しく恐れる」より)

「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」なので、この「正当」は「適当・適正・適切」という意味合いだと思うのだけど。

別の方の変化に対する懸念点。こちらの分析には納得。

「正当にこわがる」という原形から「正しく恐れる」への完成形への変換について、まず、「こわがる」と「恐れる」の違いを考えてみたい。

「恐れる」より「こわがる」には、相対的に感覚的な恐怖が感じられる。この感覚的な「こわがる」を「恐れる」に変換したとき、「感覚的な感じ方」は否定され、客観的で科学的な姿勢が強調されていく。「今、放射能の問題を前にして、我々に求められることは、感覚的に『こわがる』ことではなくて、客観的に『恐れる』ことである」というように。

つまり、多くの科学者が言う「放射能について冷静に判断しなければならない、過大な危険視をする必要はない」という文脈には、「こわがる」という言葉にある情緒性は不向きで、「恐れる」にある「客観的趣き」が必要だったのだろう。考えてみれば、冷静に「こわがる」ことなどできはしない。「こわがる」と言ってしまったとき、すでに「こわがる」ことは前提となってしまうが、「(正しく)恐れる」と言えば、「恐れない」姿勢もまた、あり得る姿勢の一つとして猶予されるのだ。

〜中略〜

それは、「正しく恐れる」という完成形と、「正当に恐れる」という中間形を比べてみればよい。「正しく恐れる」は、「恐れる姿勢の正しさ」を言及している言葉であるが、「正当に恐れる」は「恐れる度合いの適切さ」を言及している言葉である。

つまり、「正当に恐れる」には、すでに「どの程度であれ、恐れる」ことが前提として含まれているのだ。一方、「正しく恐れる」には、「恐れる必要はない」も姿勢の一つとして含まれる。「こわがる」が、多くの科学者たちの「過大な危険視をする必要はない」という文脈に不向きであったのと同様に、「正当に」という言葉に含まれる「危険視することを前提としたニュアンス」も、また、彼らの文脈には不向きであったことが、窺い知れる。

かくして、「こわがる」は「恐れる」に、「正当に」は「正しく」に変換されるというわけだ。
榊邦彦:「正しく恐れる」と「正当にこわがる」より)

では、「正しく恐れる」はいつ出てきたのか?という話。増田 耕一:正当にこわがることはむつかしい。によるとこのコラムがかかれた2005年ぐらいで「正当にこわがる」という言葉は「この、寺田寅彦(物理学者で随筆家, 1878-1935年)による警句は、 近ごろ、とくに放射能あるいは化学物質のリスクを研究する人によく引用される。 それは、近藤 (1985, 1998)が放射線の害を論じた本の頭でこれを引用したのに ならったものらしい。 」とある。また、追記として「[2006年7月追記] CROSBYの本の日本語版(2004)序文には、 この警句が、出典を示して引用されている。 この本を紹介する出版社のページ(みすず書房, 2004)で論じられているように、 伝染病も確かにこの表現にふさわしい対象である。」とある。

上のクロスビーの本の訳者の西村秀一さんが地域のパンデミックプランニング 2005年 第1号 地方が大規模感染症災害に立ち向かうための仮想条例という記事で以下のように述べている。

この新型インフルエンザのパンデミックは歴史上、周期的に私たちのまちをも襲ってきた災害であり、再びやって来る可能性が高いものとされているものだが、さらに今後そのほかにもSARSやその他の感染症が世界規模で流行し始め、私たちの県にもやって来て私たちの生活の安全と安心を脅かす事態が生じる可能性も十分あり得る。ここ最近の世界でのSARSの流行や天然痘テロの脅威や鳥インフルエンザの大流行は、まるで私たちA県に住む人間にもそうした感染症の大流行への準備を迫っているような出来事だった。だが、こうした大規模感染症災害に対しては、実際に起きてからでは残念ながらほとんど手の打ちようがなく、実効ある対策のためには事前の準備が必須である。今が、私たちのまちを、暮しを、命を、私たち自身の手で守るために、すべての者が目標を共有し、それぞれの役割を自覚し、大規模感染症災害への対策に力を合わせていく、まさにそのときである。さらにまた私たちは、後の世代に対し「正しく理解し正しく恐れる」こと、そして協働の精神なくして何ものも実現しないことも語り伝えていく必要もある。これらは、私たち今の時代を生きるA県民に与えられた使命である。

また、Googleの期間指定検索で 2011年2月28日前までの範囲で検索すると新型インフルエンザ関連で「正しく恐れる」が使われていた様子。

寺田寅彦の「正当にこわがる」を理解した上で、「正しく恐れる」を使っている西村秀一さんが「正しく恐れる」の出典でないかと思う。

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