「質問されるのは自分に非があるから」という認識

ハッとさせられたのでメモ。

たとえば、主人公がガールフレンドにキャミソールをとってと言われ、まったく違うものを渡すシーンがある。この奇妙な場面が語ろうとすることはいったい何か。それはつまり、この主人公が幼いころから相手の心情ばかりを勝手に想像し、先回りしてトラブルを回避する生き方をしてきたと、そういう事を表現しているのである。「質問すると相手が嫌がるから、推測ばかりしてたんだ」とのセリフ、これこそ本作の重要なテーマである。過剰に相手に気を使うことが、おかしな食い違いの原因となることもあるのだとこの映画は言っているわけだ。

「質問すると相手が嫌がるから、推測ばかりしてたんだ」と考える人が多く、質問をしないでも色々回るようになった環境において、「質問される」という事象はどのような意味を持つのだろうか?あえて、嫌がることをするというのは相手が横暴であるか、自分に非があるか、長い目でみると得になることなのであえて行うのか、のどれかであると考えるのじゃないかと思う。

叱るという行為が怒るという行為と区別がつかず、相手が横暴であるか、自分に非があるかの二択しか認識できなくなるように、「質問すると相手が嫌がるから、推測するんだ」と考える人が多い環境においては、「質問される」という事象も、相手が横暴であるか、自分に非があるかの二択しか認識できないんじゃなかろうか。