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バカロレア哲学試験問題

メモ

2015年バカロレア哲学試験問題:これがフランスの大学入試!を見て、「こんなんどうやって回答するんだ?」と思ってGoogle先生に尋ねたら以下の紀要論文が見つかった。

「はじめに」にある本論文の目的。

本稿では、フランスの哲学教育におけるさまざまな実践を、エリート教育や理想化とは異なる視点からの検討を試みる。哲学が苦手な生徒にとって、哲学試験はバカロレアにおいて乗り越えるべき大きな関門である。彼らはいかにしてこの試練に対処するのか。

高校で行われている実際の哲学教育を対象にし、そこで学ぶ生徒の学習行動を分析することができれば、このような問いに直接的な回答を与えることができるかもしれない。しかし、教員によって内容、教育方法が大きく異なる哲学教育それ自体を対象とすることは、一般性の担保、情報源へのアクセスの面からも容易ではない。生徒を対象にすることも、むろん困難である。そこで、本稿では、多くの高校生が学習の補助として使用するバカロレア哲学試験の参考書の構成、記述を参照し、バカロレア哲学試験において何が求められており、どのような対策が行われているのかについて考察したい。

「おわりに」を転載。

以上に概略を示したような哲学教育、試験によって、確かに生徒はヨーロッパ文化の一つの基礎である哲学の教養を身に付けることができるだろう。それは哲学教育の理想の一つである。しかし、バカロレアの哲学試験において評価されるのは、決して教養そのもの、あるいは独創的な思考や人間性ではない。むしろ問題となっているのは、哲学という枠組みと、授業において学んできた議論の構成の尊重であり、自由な想像力や思考の展開ではない。哲学を通して生徒が学ぶのは、この「思考の型」であり、そしてその「型」に内実を与える要素の一つとして、引用を記憶する必要が強調されているのである。そして、「思考の型」そのものも、ある意味においては、記憶と反復練習によって、その使い方に習熟しなければならない対象である。おそらく、哲学を学ぶことによって得られるこの「思考の型」は、その最良の場合にはモデルとして機能するであろうし、そうでない場合には、論じる対象の独自性を顧みず、機械的に議論の型をあてはめるような「紋切り型」として機能することになるであろう。「論理のたて方、議論の構成を学校教育で学ぶため、みなが同じような議論をふりまわす傾向」(柏倉、2011)の存在は、こうした「型」の刷り込みを物語る例であると言えるだろう。

哲学教育そしてバカロレア哲学試験は、おそらく論理的思考力を身に付けるための一つの有効な方法であろう。しかし、試験において評価される「思考力」は決して独創性や創造性と等価ではない。それは型の習得と反復によって獲得されるものであり、その意味でフランスの哲学教育は、ひとつの規律・訓練の形であるとさえいえよう。学習参考書の分析は、こうした「思考の型」の修得において、カリキュラムにおいて描かれる目標とは異なるアプローチが存在することを明らかにする。重要なのは、哲学教育をその制度、理念からのみ理解するのではなく、そこで行われている、ある意味で反理念的な実践に着目し、それを描きだすことで、哲学教育に関する実践の多層性を明らかにすることであろう。

これを読んで「そうか、やっぱりお受験だから対策があるんだな」と安心したあとに、付録の良くない答案の例をみて、その講評を読んだときの衝撃。

受験者は主題をそれ自身において考えていない。それは二つの理由による。第一に、主題文の特殊性を考慮に入れておらず、結果として「∼にすぎない」という限定を無視している。そして第二に、主題とは一般的な知識を哲学的厳密さなしに書き連ねるための口実などではない。この結果、候補者はいかなる問題提起の手続きも踏まず、その記述の過程において論拠を列挙するにとどまり、また、主題それ自体の特殊性に見合った十分に正確な典拠もまったく示さなかった。

専門外の私がこの小論文の採点者なら、ここまでかけている受験生は通してしまうと思う。やっぱり、レベル高い。