成果とその成果が個々人にとってどのように役にたつのかは別の話

大学3年生までの学校の勉強は、自分がやったこと(成果)の価値は誰か偉い大人が保証してくれた。でも、学外のさまざまなこと、卒業研究をはじめとした研究、社会人になったあとの仕事や日常生活では、成果そのものとその成果が誰かにとってどのように役にたつのかは、私たち自身が説明しなければならない。

学生の論文指導やレポートの採点などをしていて思うのは「こいつら頭が固いなぁ」ということ。どうして、そう思うのかというと、自分の成果の価値の説明を読み手によって変えられないから。まるで、壊れたジュークボックス。コインをいれたら、どのボタンを押しても同じ曲ばかりがかかる。

成果はその成果を得る元となった背景、目的、動機、問題意識とは独立して存在し得る。ある人にとってその成果はAという価値をもつかもしれないが、別の人にとってはその成果はBという価値を持つかもしれない。成果そのものと成果が誰にとってどのような価値を持つかは別々の話である。

たとえば、宝石のダイアモンドがあるとする。ダイアモンドは、誰がどのような価値を見出すかに関わらずダイアモンドとして存在する。ある人にとっては、複雑な輝きをする美しき石としてダイアモンドの価値があるかもしれない。ある人にとっては、地球上でもっとも硬い物質の一つであるという事実に価値を見出すかもしれない。ある人にとっては、ダイアモンドが高値で売買されるものであるという事実に価値を持つかもしれない。

私たちがダイアモンドを手にしたとき、ある人に自分が持っているダイアモンドを最大限にアピールして価値を認めてもらいたいならば、その人が興味を持つ側面を理解し、その部分を強調して、ダイアモンドの価値を説明しないといけない。

正解が保証されない事柄について、自分が得た成果の価値は自分が説明しなければならない。自分の説明が相手に届くようにするためには、自分の成果のどの側面が相手にとって魅力的に映るのかをよく理解して、そこをプッシュしなければならない。同じ成果でも相手が変われば説明が変わる。これを理解しないと、良い論文やレポートは書けるようにならない。

だから、実験結果が悪かったり、研究の目的とは違う成果がでたときも、がっかりせずに成果そのものをよく見て、その成果が誰かにとって役にたつものではないかを考えて見ないといけない。素因数分解の計算量的難しさとか粘着力が弱い接着剤ができちゃった話(3Mのポストイット開発経緯)とか、あとでどう転ぶかわからんものが世の中に存在しているわけだし。