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勉強の話

はてなブックマーク経由で。何かを考え始めるきっかけとして良いエントリー群。

分裂勘違い君劇場 - 魔女狩りをする浦島太郎より

ビジネスの正否は、(1)人が欲しがるモノで、(2)しかもまだあまり供給されていないものを、(3)低コストで提供したかどうかで決まるのだ。要は、需給バランスと生産コストの見極めがキモだ。マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーション、だ。耳タコだ。

それらは、学校では教えてくれない。なぜかというと、学校の先生というのは、「学校を出て学校に入った人たち」だから、学校以外の世界の原理を知らないからだ。世の中が、マーケティングで生産性でマネージメントでイノベーションになっちまってることを知らない浦島太郎だからだ。学校というところは、浦島太郎が浦島太郎を拡大再生産する工場みたいなもんなのだ。

大学の教員のほとんどは、研究を行っている。研究の一番のポイントは、(a)世界にまだ存在しないものを世界へ提供する、という点にある。世界に存在していないものは、まだ誰も調査していない結果であったり、誰も知らなかった物質や生物であったり、誰も思い付かなかった解釈であったりとさまざまであるが、とにかく世界に存在しなかったものを提供するのが研究の一番のポイントである。工学的な研究であれば上記引用中にある(1)〜(3)も評価基準となり得る。

研究の一番のポイントからすれば、上記のビジネスの正否に関わる3つの点はそれほど優先順位は高くない。基本的には科学の分野における多様性をより発展させていくのが重要であり、有用か否かは別の基準だと思う。イノベーションの土台を用意するのが研究者の役目(場合によっては、自分でイノベーションを起こしてしまう人もいるが)。よって、大学の先生が引用のようなことを教えるのが得意かどうかと言われるとたぶん不得意であると答えざるを得ない。

以下の話は学生に卒業研究を課す学部や学科に限定されてしまうのだけれども、卒業研究というのは引用の行動面を鍛えるのには大変適した課題であると思う。卒業研究は、正直なところ研究の真似事である。その評価は卒業研究の成果にはなく、卒業研究を行う過程で身に着けた考え方や姿勢に対するものがほとんどである。科学は日々前進しており、解くべき課題は日々複雑化している。そんな複雑化した課題を研究のやりかたを知らない人間が1年で解決できると思うのはそもそも楽観的過ぎる。卒業研究の価値は、結果でなく、研究をしてみる(真似てみる)ことによって得られる考え方と姿勢にある。

研究のポイントは、(a)世界にまだ存在しないものを世界へ提供する、という点にあるのだから、研究の一番最初の一歩は、自分がこれから行おうとすることは、まだ世界に存在していないのかを調査することにある。次にその存在していないものをどうやって創造するのかの方針と方法を考えて実際に創造を試みる(「創造できない」という負の結果も立派な創造物になる。また、実際には創造の過程や、どうやって創造を行うのかの方針や方法の検討自体も創造物となる)。そして、最後はその創造物を世界へ紹介する(論文、発表、特許などなど)。最後の創造物を世の中に紹介する過程で、自分の創造した物が世界にとってどのように新しいのかいうことを説得する必要がでてくる(ただし、「世界=世界の人々全員」ではない。「世界=自分以外の他者」)。

この研究を行う一連の過程の中で引用とは目的が異なるが、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションの4つの要素は必ず含まれる。研究対象が世の中でどういう位置づけにあるのかを調べ、その調査結果を踏まえて何かを創造する。よって、マーケティングとイノベーションは研究にとって欠かせない要素である。また、最近はプロジェクトによる研究も増えてきたことからマネージメントも不可欠である。研究成果は大量生産されるわけではないので生産性はあまり重要ではないが、限られた期限内に研究をおえなければならないことも多いので無視できるわけではない。

卒業研究は、研究を体験、あるいは真似てみることであるので、間接的にではあるが、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションに関しての体験あるいは真似事を行うことになる。だから、大学の講義でマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションに関して学ぶのは難しいが、大学の講義で得た知識や技術をベースとして卒業研究を行うことでマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションの初歩を体験、あるいは匂いを感じることができると考える。引用文で指摘されているとおり、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションについて大学が教えていないのはたぶん本当だと思う。けれども、これらが体験できるカリキュラムが組まれているかどうかでいえば、卒業研究がを体験することで、匂いは嗅げるのも確か(まあ、この主張は、能の動きから剣術の奥儀が学べるというような、そう考えればそう認識できるかも知れないねレベルかもしれないけれども)。

ただ、思うのはマーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションっていうのは学べることのか?という疑問がある。それこそ、分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント - セルフコントロールはできないのが当たり前でいわれている通り

つまり、マネージメントのありがたみは、「マネージメントのない状態がいかに不幸であるか」、ということを、自分の体で感覚的に味わった後でないとわからず、知識のありがたみが感覚的に分からなければ、そんな知識を頭に詰め込むのは、退屈で苦痛なのが自然で、それをセルフコントロールでなんとかできちゃう人たちって、オイラから見ると、人間離れしてすごい人たちに見えちゃいますけどね。

体験前には、その重要性を認識しづらい事柄だと思う。スポーツの練習に似ている。

福耳コラム - 適応できない日本人たち

彼らは学んでどうしようとかなんになろうとか、そういうビジョンがまるでないから、機会を設定してもなにをやるでもない。

は、もしかしたら「実際に体験してみないとその重要性を認識しづらい事柄」というものが世の中にはあって、自分がいま直面している事柄もそうなのかもしれないという想像力がかけていることに由来しているのかもしれない。

スポーツの練習は、全体の動きの中の一部分を取り出して反復練習するのが基本。その全体の動きの一部分の重要性は、全体の動きを通してみてはじめて理解できる。だから、スポーツの初心者は基本練習の重要性が理解できず、基本練習を地道にこなせない。モチベーションが高まらないからだ。一方で、スポーツの熟練者は基本練習を大切にする。理由は、全体の動きを既に把握しているので、基本練習が全体の動きのどの部分を取り出した動きなのかを理解しているからである。

基本の動き(全体の中の一部分の動き)ができなければ、全体の動きを習得できない。だけど、基本の動きの重要性は全体の動きを習得してからでないと理解できない。よって、普通は初心者が基本練習を自発的やることはない。だから、指導者の人格や指導方法が重要になってくる。非常にくだけたいい方をすると「初心者にどんな理由でも良いから基本の動きを全体の動きができるようになるまで練習させ続けられる」ことができるのが良い指導者となる。理由なんてどうだって良い。これは、勉強も一緒。

しかし、一方で、そもそも初心者(初学者)が、「基本の動き(全体の中の一部分の動き)ができなければ、全体の動きを習得できない。だけど、基本の動きの重要性は全体の動きを習得してからでないと理解できない。」ということを頭の片隅にでもおいていると、指導者や指導法の良い悪いに関わらず、スムースに基本の動きの練習をスタートすることができる。

収集がつかなくなってきたのでまとめ。
分裂勘違い君劇場 - 魔女狩りをする浦島太郎のエントリーの

  • 大学は、社会で働く上でもっとも重要なことは、マーケティング、生産性、マネージメント、イノベーションを教えてない

という主張にたいして

  • 確かに教えていないと思うが、卒業研究という上記の4つを体験するカリキュラムを設けている

といいたかった。

福耳コラム - 適応できない日本人たち
分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント - セルフコントロールはできないのが当たり前のふたつのエントリーを読んで考えたことは、

  • 体験しなければ学ぶ必要性が理解できないことを学ぶ気にならないのは当然だ
  • 体験しなければ学ぶ必要性が理解できないことがあるかも知れないと考え、とりあえず学んでおくことが必要だ

のどちらの主張も正しいが、現状認識として

  • いま、学ぼうとしている事柄の重要性は体験しなければ理解できないということを教師たちは学生に提示できていない
  • いま、学ぼうとしている事柄はどういうときに重要になり得るのかということを教師たちは学生に提示できていない
  • 学生は、体験しなければ学ぶ必要性が理解できないことがあるかも知れないと考え、とりあえず学んでおくという姿勢はない
  • 社会は、学ぶという行為を行うか否かは、教師の力量(人格や指導法)にのみかかっていると信じている

どうすれば良いかについては、スポーツの指導法を参考にしたらよかろうと思う。

  • まず、これから行うことの意義がなんとなく感じられる程度に説明する(全体の中での位置づけの説明)
  • 次に、実際に行わせる(強制的に行わせる)
  • その後、全体の動きを行わせる(たとえば、練習試合、試合、通しの演技など)
  • もう一度、行った(あるいはもう一度行う)練習の全体の中での位置づけの説明する

授業や講義の冒頭に、これが役立つ状況や問題を説明し、あとは有無をいわさず勉強させる。そして、答えのでないような、あるいはゴールの無いようなプロジェクト(あるいは卒業研究)を体験させて、もう一度、最初の授業の位置づけを説明する。

こういう体験を小学校のころから何回も経験すれば、「実際に体験してみないとその重要性を認識しづらい事柄というものが世の中にはあって、自分がいま直面している事柄もそうなのかもしれない」と思うようになると思う。それと並行して、そういう姿勢が無駄にならないように授業の提供側も重要な事柄を社会の中の位置づけと一緒に教えるように努力すればよいかと思う。

で、最終的には学生や教育機関の人間だけでなく、社会の全員がはてな:【どうして勉強しなきゃいけないの?】という質問に

「自分の可能性を広げるため。」「自分の世界を広げるため。」

と答えられるようになれればよいと思う。


メモのつもりだったのに長くなった。