数学の壁は2つある

を読んで、急に書きたくなったので書きます。それは、数学の難しさについてです。

数学についていけなくなってきたのは、高校のときからでした。なぜ、高校で数学についていけなくなったのか?それは、数学というものが人工的に組み立てられた世界であるということが理解できなかったからです。数学は、「定義」に基づき世界を構築します。定義から何の前提もなく正しいとわかる事柄が「公理」と呼ばれます。定義から何の前提もなく正しいとわかる事柄、および、定義に関係なく無条件に正しいとみなす事柄が「公理」と呼ばれます。この定義と公理から、第三者が理解できないようなジャンプをせずに説明できる事柄が「定理」です。これは、数学のどの分野においても成り立ちます。

高校のとき(実は中学校のときも)、私はこの理屈を理解できなかったのです。

  • 「なぜ、定義や公理を証明しないのか?」
  • 「なぜ、定理は、定義や公理と違って証明しなければならないのか?」

この点がさっぱりわかりませんでした。

このように考えた理由は、数学も、社会や理科と同様に、私が住んでいる世界を説明しているものだと考えていたからです。ですから、私が実感として納得できない事柄を無条件で「定義」や「公理」として認めなければならないという出来事に反発を覚えたのです。「なんで、私が会ったこともないピタゴラスという人の意見を受け入れければならないのだろう!」これが、私の当時の思いでした。

しかし、大学の工学部に入り、そこで数学の授業を受けているうちに数学の本質は、人工的な世界を構築するということにあると理解がやっと及びました。ただ、それを理解したときに思ったのが、「じゃあ、数学なんて現実世界となんの関係もない、記号遊びにをやっているだけだな。だから、僕には必要ないな」です。紙の上で、都合の良い条件だけで構成される数学の世界が、常に複雑で、どんな構成要素なのかもわからない現実世界に役に立つなんてとてもとても信じられませんでした。

しかし、大学4年生で卒業論文に着手後、指導教官が「現実世界の問題を抽象化する。抽象化した問題を抽象世界で数学を用いて解く。その後、その結果を再び現実世界に適用する。これが、我々、工学者のやることだ。」と指導してくださったのを聞き、数学というものがどのように現実世界に役にたつのかを理解し始めました。

複雑な現実世界の問題や現象を抽象化・簡単化し、それをある数学の分野の記法と概念と規則で記述、処理する。これが、工学における数学の役割である。工学において、数学の諸定理や諸分野は問題を抽象化したあとに使用する道具や記法である。そのため、道具は多い方が良いので新たな分野、新たな定理が必要とされる。この新たな分野や新たな定理を見つけ出し、体系化するのが数学者の役割である。

これを理解したとき、やっと数学の必要性というものがわかり、しっかりと数学を勉強しておけばよかったなぁと反省の念が湧いてきました。

私は、数学の必要性を理解するためには二つの壁を超えなければなりませんでした。一つ目は、数学は人工の世界の構築であるということ。極端にいうと、単なる記号操作の集合であるということ。二つ目は利用者がその記号操作に意味を与えることによって、さまざまな現実的な問題を解くことが可能になるということ。この2点をそれぞれ理解しないと数学の必要性に目覚められなかったのです。

ですから、1つ目の壁を越えただけの学部生のときには線形代数が非常に嫌いでした。

線形代数は、何の話にもでてきますし、固有値や対角行列、逆行列など作り方や求め方は覚えましたが、これが何の役にたつのかさっぱりわからない。連立方程式を解くのに使ったかと思えば、画像の変換にも使う。この主張の無さ、道具感が嫌で嫌でしょうがありませんでした。でも、線形代数というものはその定義の中においてはいろいろな操作が可能である体系である。また、何かしらの問題を線形代数の体系に抽象化することができれば、以後は線形代数の操作を行うことでその問題のさまざな特性を知ることができ、さらに、うまく現実世界に対応付けることができれば、問題の解決もできる。このようなことがわかってからは考えが変わりました。

今となっては「数学なんて社会にでてから役に立たない」と言っている人たちをみると、「そうでもないですけれどもね。」と反論したくなるようになっています。

また、数学は定義と公理から論理的に定理を見つけていくものです。この過程において、論理的思考が身につきます。この論理的思考は自分の考えを他人に理解してもらうのに役に立つ方法論です。この点でも、数学を学ぶことの重要性があります。