Diamond.jpに連載されていた「『会社のワガママちゃん』対処法」が非常に面白く、身につまされて痛い。大学で学生指導を担当している教員のみなさんは目を通した方が良いと思う。
ここで言っているワガママちゃんというのは、ギャングエイジと呼ばれる精神的成長時代に人にもまれなかったために、ストレス耐性が著しく弱い未成熟な人のこと。
では私たち精神科医が捉える、人格の成熟の「指標」とはなんでしょうか? 精神科医の斎藤環先生(※1961年生まれ。筑波大学医学研究科博士課程修了、医学博士。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学)は次の2点をあげています。
・ストレスに耐えて葛藤を克服できる能力
・相手の感情を感じて自分の感情を適切にコントロールできる能力これらは、小学生時代から高校生くらいまでの思春期前後に、親子関係や友人関係における精神的葛藤体験の克服から獲得されてきます。
ところが最近では、母親の溺愛と過保護、同年齢同士の交友関係の希薄化により、いわゆるギャングエイジと呼ばれる精神的な成長の時代に「人にもまれる」という経験をせずに、進学塾などで優秀に純粋培養されて成長した若者が増えています。
(‘‘傲慢なのに打たれ弱い’’未熟でワガママな若手社員はなぜ増えたのか?より)
「ワガママちゃん」の考え方と行動特性は以下の5つとのこと。
- 他罰性と内省の欠如
- 現実検討能力の欠如(青い鳥症候群)
- 自己イメージの肥大
- 高いプライド
- 情緒的共感能力の欠如
でこういうワガママちゃんを部下に持った上司の言葉がこれらしい。
「会社は家庭でも親でもないですよ、そこまで会社が面倒みないといけないんでしょうかね?」
(挫折を知らない「新人ワガママちゃん」は、配慮を欠いた‘‘困った言動’’を繰り返すより)
私も私のボスもこれと同音異曲の発言を良くしてしまう。「大学は家庭でも親でもないですよ、そこまで大学が面倒みないといけないんでしょうかね?」
この連載はこのワガママちゃんを困った人材として切り捨てるのではなく、未成熟な部分を成熟へ導くことで会社にとって有用な人材に育てるにはどうすればよいのかということを述べている。そして、この連載の白眉は以下の分析だと思う。
ユダヤ系アメリカ人の医療社会学者A・アントノフスキー博士によって提唱された、SOC(sence of coherence、首尾一貫感覚)と呼ばれる能力があります。博士は、ナチスのユダヤ人強制収容所から終戦とともに無事に生還した人々の追跡健康調査を行いました。この調査によれば、多くの生還者は、あまり長生きはできませんでした。
ヒトは一般的に、極めて過酷な環境に、ある期間さらされると、心身のエネルギーが消耗してしまい、健康を保ちにくいと言われています。ところが生還者のうちのある集団だけは、心身ともに極めて良好な健康状態を保ち、天寿を全うしたそうです。博士はその集団の性格特性を精緻に分析しました。その結果、その人々に備わっていた能力・性格特性が、SOCという概念に集約されることが明らかになったのです。
(「きっと上手くいくに違いない」と思える感覚が、ワガママちゃんを成長させる より)
SOCの構成要素は「きっと上手くいくに違いない」と思える感覚が、ワガママちゃんを成長させる より以下のとおり。
- 「有意味感」
- "あまり興味のない仕事、面白みの感じられないタスクにも、「まあそのうち、なんかの役に立つかもな」「そのうち面白くなってくるかもね」と自然に考えられる特性です。"
- 「全体把握感」
- "仕事の展望を時系列的に把握できる感覚のことです。"
- 「経験的処理可能感」
- "「過去に、これだけの仕事は成功させてきた。だから今回のミッションは荷の重いミッションだが、あの経験をもとに、プラスアルファの努力をしてみれば、なんとかいけるかもしれないな」と、自然に思える感覚です。"
そして、「経験的処理可能感」の説明にでてくる自己効力感(SE)が価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないの経験とリンクして目から鱗だった。
彼らは、自分が失敗して傷つくのを怖れています。ですから、過去に成功した仕事があっても、「あれは、たまたま上手くいっただけ」「今度は上手くいかないかも?」と常にネガティブに考えているのです。
これは自己効力感(SE)という概念で、「今の自分は、ここまでの仕事ならきちんとこなせる人間だ」「こんな経験をこなしてきたのだから、ここまではできるはず」と、客観的に自分の能力やサイズを等身大に認識できる感覚です。SEが高い人は他人からの評価を求めません、いつも目線は自分の内側に向けられて、淡々と仕事をこなします。
しかし、常に他者からの評価を求めるワガママちゃんの言動は、まさに「本当は自信のない自分を褒めてもらって、初めて安心する」、SEの低さの表れなのです。
(「きっと上手くいくに違いない」と思える感覚が、ワガママちゃんを成長させる より)
「有意味感」、「全体把握感」、「経験的処理可能感」の3つは、自分が学生だったころ、そして、研究室の上級生になって学生を指導するようになってから常に感じていたことが明確化されたものであるように感じている。
やる意味を感じられない事柄はやる気が起きないというのは万人が同じ。教員や先輩がきっちりとやる意味を教えてくれ、かつ、納得させてくれる場合は、問題ないけれども、そうでないときにつまづきのきっかけが出る。
自分がやっていることに自分で意味が与えられる能力、すなわち「有意味感」を自分で制御できる人は「どんなことからも学ぶことができる」と認識を変えて、いろいろと取り組むことができる。あるいは、ちゃらんぽらんな人や体育会系気質な人は「先生や先輩が言ったことだから」というメタ的な意味を与えて、やってしまう。
「有意味感」を制御できず、かつ、「先生や先輩が言ったことだから」では自分を納得させられない人が問題。だから、真面目で勉強ができた学生が案外、卒業研究や修士研究の答えがない話(マニュアルがない話)でつまづく。
「全体把握感」なんて、初めて行うことに関してあるわけない。なので、常に先が見えない状態。定型業務を除き、ほとんどの事柄は未知のことなので「全体把握感」を制御するのは難しい。ただ、いろいろな経験を積んでいれば類推(現在の検討対象を別の事柄に対応させて、どうなるのかを推測すること)できるので、「全体把握感」の制御ができるのかもしれない。
「全体把握感」がない状態では、自分が今行おうとしていることの意味が明確になりづらい。なので、結局「有意味感」の制御能力が動機の維持に関係してくるのだと思う。
「経験的処理可能感」も、初めて行うことに関しては役立たない。けれども、これもいろいろな経験を積んでいれば類推が可能となる。また、自分がやろうとしていることを理解していればしているほど、個々の作業や要素を分解して認識できるので、分解した作業や要素ごとに過去の経験と対応付けして「経験的処理可能感」の制御を行うことができる。
卒業研究をやった学生とそうでない学生を比べた時に、修士研究の修羅場時の対応はまさにこれが大きくものを言っているように思う。また、国際会議で英語発表をしてきた学生は、口をそろえて「就職の面接は楽だった。だって、日本語で説明できるから」と言っていた。これも、「経験的処理可能感」の話。先日書いたRubyに感銘を受けたという話と「Rubyに感銘を受けたという話」の続きは、C言語によるプログラミング経験をベースとして考えた「経験的処理可能感」とRubyによるプログラミング経験を得て考えた「経験的処理可能感」が違っていたという話なんだと理解できる。
「全体把握感」と「経験的処理可能感」は若者や初心者(初学者)は制御できないのが普通。そうするとストレスに耐えるための要は「有意味感」になるのだろうけど、自己効力感(SE)の制御がうまくできないタイプ(他人の評価が気になるタイプ)だと、自分だけで成立する意味を見つけられないか、自分が見つけた意味に保証をもらわないと安心できないかになってしまうのだと思う。そして、真面目で勉強ができた学生が卒業研究や修士研究につまづくという方向に(→ 卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう)。
真面目で勉強ができるというのは本来は素晴らしいアドバンテージなのだから、これを生かすべき。なので、「有意味感」の部分を支援すれば本領発揮してすごくなるのかもしれない。
でも、「大学は家庭でも親でもないですよ、そこまで大学が面倒みないといけないんでしょうかね?」と常に思っちゃうんだよなぁ。