論文代筆サービスを使おうと考えているみなさまへ

まとめ

以下のような論文代筆サービスを使おうと考えてみるいるみなさま。

あなたが、研究過程や論文執筆過程を管理しない研究室やゼミに属しているならば、論文代筆サービスで指導教員を騙せる可能性があります。ですが、そもそもそんな学科や専攻を卒業/修了しても価値がありません。

研究過程や論文執筆過程の管理を行っている研究室やゼミに属しているならばお金の無駄です止めましょう。

メタ研究技術を身につけた人材は社会で求められている

昨日、博士持ちでかつ会社勤務をしている方々とお食事したときの一言が印象に残っている。

  • 「なんだかんだいって、私たちって転職先を選べるんだよね。」

もちろん、博士号を持っているから職が得られるというわけではなく、そのときに身につけた専門知識やメタ研究技術をベースに最初に就職した先で自分の売りとなる能力を身につけたからこそ転職先を選べるわけだけど。ベースとなっているものの汎用性は無視できない。メタ研究技術、すなわち、クリティカルリーディング(批判的に本を読む方法の理解)、論理的思考法(演繹的思考法、帰納的思考法、仮説生成的思考法とこれらの思考法の限界の理解)、証拠に基づく議論術、技術文書作成法、あと研究分野によっては協調的作業の経験などは、ホワイトカラーと呼ばれる職種で要求されている能力そのもの。

研究は未だ明らかでないことに取り組むことなので、正解は誰にもわからないし、その有用性は説明されなければ理解できない。この「正解は誰にもわからないし、その有用性は説明されなければ理解できない」という性質はどの分野の知的作業でも共通の性質なので、仕事のどこかに知的作業(すなわち、工夫の余地)が含まれている限り、研究で学んだメタ研究技術は常に役に立つ。

また、国際化が叫ばれている昨今だけれども、国際化というのは外国語が話せるだけでは意味がない。幸い、自然科学や工学の研究のスタイルは欧米で洗練されてきたものであるので、自然科学や工学のメタ研究技術は、そのまま国際人となるためのベースとして利用できる。

逆にいえば、メタ研究技術や専門知識を身につけていない学士号/修士号の存在価値は「受験勉強で〜という大学に受かるぐらいがんばりました」というシグナリングに使われるだけ。大学のブランド力=あなたの持っている学士号/修士号の価値となる。

一面の真実:研究のやり方、論文の書き方を教えていない教員がいる

私や他の方が書いた研究ノウハウ系エントリーがしょっちゅうはてなホッテントリーに上がる現状を見ている限り、メタ研究技術を明示的に学生に教えていない教員、研究室、学科、専攻、大学があるのはどうやら事実。なので、こういうサービスに一定の需要がでることはわからなくもない。

教官から卒業論文(卒論)、修士論文修論)、レポートの指導を受けられない方のための代行、代筆、添削、指導を承ります
卒業論文(卒論)・修士論文(修論)・レポート代行の代筆くんより)

これは、欧米や欧米の旧植民地の教育で基礎になっているらしい言語技術教育は、本来小学校から行われるべきであり、大学でも技術文書作成技法の授業があるべきなのだけど、それが行われていないのが第一の原因。次に、最後の砦である大学教員の中で手を抜いている人がいるのが第二の原因。これは、教育制度および大学教員が悪い。

論文の書き方なんて必要なの?と思われるかもしれないけれども、自分の主張を相手が納得できる形でわかりやすく説明する能力は必要不可欠。大学生が直近で体感するのが就職活動時のエントリーシート作成。

研究過程や論文執筆過程を管理されていると代筆サービスが無駄になる理由

以下の4つの理由により、研究過程や論文執筆過程を管理されている研究室/ゼミに属していると代筆サービスは割にあわない。

  1. 研究の進捗状況や学生の文書作成能力について教員が把握しているため、代筆がバレやすい
  2. 文書作成能力がバレないように、進捗報告すら代筆サービスに委託するならばお金がいくらあっても足りない
  3. 教員の論文指導や発表指導に対応するために論文書き直しを行うとお金がいくらあっても足りない
  4. 代筆してくれる人のために執筆材料を依頼人が揃えるとなると、事実上、自分で論文書いている労力と大して差がなくなる

大学院生が卒論・修論指導をすべき理由とそのやり方俺様に論文を指導してもらいたければ以下の手順を踏みやがれ!良い進捗報告のやり方で書いてあるような方法で、学生の研究過程や論文執筆過程を管理している場合、学生は論文だけでなく、進捗報告の資料やメール、論文の構成案などのさまざまな文書を作成しなければならない。その結果として、教員や先輩はその学生の文書能力を把握することができる。代筆サービスは仮にもお金をとるので、それなりにまともな文書を書くと仮定すれば、学生の文書能力からすると不自然にうまい文書をいきなり提出してくることになる。不自然にうまい文書を見た教員や先輩はどのように判断するかと言うと、まずはコピペを疑い、次に代筆を疑う。どちらも、許されないことなので存分に叱られることになる。

卒業論文(卒論)・修士論文(修論)・レポート代行の代筆くん:料金についてによれば、卒論だと1文字あたり7円ということなので、A41枚に1,000字書けるとし、本文が30ページだとすると卒論1部で30,000字。よって、卒論1部で21万円となる。どんな有名大学とはいえ、たかだか修士レベルの学生が卒論の代筆をしているのであれば、少なくとも2回は半分くらいの内容を書き直しさせると思うので21万円×(1+0.5+0.5)で42万円(もし、書き直しがいらないレベルであるならば、即座に代筆が疑われる)。

時給1,000円のアルバイトをしているとする(今、こんな時給が高くて長期間できるアルバイトは少ないと思うけど)。すると、422時間働くと代筆代が用意できる。1回8時間働くとすると約53日働く必要があり、週5日働くとすると11週間。一ヶ月が4週あるとすると、約3ヶ月働く必要がある。卒論を書かないために3ヶ月のバイト代を全部費やすというのは私の感覚からすれば馬鹿らしい話。なぜならば、422時間卒論に費やせば、ほとんどの学生がまともな卒論を書くことができる。さらに、42万円は卒論執筆分の代金なので、卒論を書く材料を用意するために依頼者はバイト以外の時間を使って研究しなければならない。

進捗報告の資料も代筆するとすれば1回につき最低でも20,000円かかる(2,000字以下のレポートの値段がこれ)。就職活動が終わる8月から2週に1度進捗報告があるとして、12月が論文の提出だとしても、20,000円×(8月分+9月分+10月分+11月分+12月分)= 20,000円×10回=20万円。そして、依頼者は進捗報告の材料を用意するのために研究を進めないといけない。

実際に研究を行っていない第3者が進捗報告の資料を作れるぐらい、あるいは、卒業論文修士論文を書けるぐらいの材料を用意することがどれくらいの作業量かといえば、自分が論文を書く際の作業の7割ぐらいと考えて良い。残りの作業は、日々の成果を報告すること、論文の構成を考えることと実際に文章を書くこと、論文指導に対応して修正することだけである。そこまでの労力を費やして、かつ、60万円以上のお金を払うというの賢い行動とは思えない。

代筆がばれた時のリスク

博士論文において不正が見つかった場合には、修了後であっても学位認定の取り消しがありえる。

学位の有無によって採用が決まるような職種(大学教員や国立/民間研究所の研究員)ならば、職を失う可能性が非常に高い。そうでなくても、社会通念的には経歴詐称をする人間は信用できないとして不利益を被る可能性が高い。

卒論代行がばれたら最悪どうなる?で調べたときの感想から言えば、刑事事件になることは今のところないと思われる。ただし、資格試験の替え玉受験は刑事事件(「事件番号:平成5(あ)498、有印私文書偽造、同行使被告事件」)になったようなので、今後はどうなるかわからない。

さらに、上記のように代筆がバレることにより不利益が生じるならば、代筆の依頼者は常に「代筆を頼み不正に学位を取得した」ということを暴露される危険に晒される。「卒論や修論ができないならば、別に学士号や修士号なんていらない」と思う人は、代筆サービスを使わないで、「どうしても学士号や修士号が欲しい」という人がサービスを使う。「どうしても学士号や修士号が欲しい」と思う人は世間体や学歴を気にする人と思われるので、「代筆を頼み不正に学位を取得した」ということを暴露されるダメージは大きいのではないかと思う。

まとめ

  • メタ研究技術を学ぶ機会を放棄してしまう
  • 大して労力が省けるわけでもない
  • 学生にとっては大金を払わなければならない
  • その後の人生でいつも脅迫される恐れを抱える

上のすべてがOKな人は、代筆サービスを使えば良いと思う。

私ならば使わない。

じゃあ、私は卒論をどう考えているか?

ここまで書いておいてなんだけど、私は卒業研究というのは「研究の真似事/体験する機会」と考えている。

また、以下のようにも考えている。

私は、卒業研究や修士研究で得た経験が今後の人生においていくばくかの役に立つと信じているので、卒業研究や修士研究を真剣にかつ楽しく行って欲しいと思っている。でも、一方で、卒業研究や修士研究は長い人生において、何回か登場するちょっとした進級試験でしかないことも理解している。だから、はっきりいって卒業研究や修士研究で自分の心や体を壊すなんていうのはあまりにももったいないと思う。

博士研究は別として、卒業研究と修士研究は成果ではなく努力を評価の対象としている。「でも、中間試問や最終試問とかでは成果について問いただすじゃないか?」という疑問もあろうかと思うけれども、それは、努力の度合いを成果を用いて判断しているだけで、実は成果自体を評価対象にしていない。その証拠に、博士の修了条件とは違って、貴方の成果を査読つきの学術論文の公表を求めていないでしょ?

しかしながら、この「努力を評価する」という仕組みは、時として学生を追い詰めてしまうこともある。なぜならば、一般的に努力とは他人の目にどう見えるかであって、自分がどれだけがんばっているかではないからだ。

だから、自分ができるベストを尽くせばそれで十分であると思う。

でも、卒論をどうしてもやりたくない人がいるならば、代筆業者を儲からせるのではなく、大学がお金で卒業認定してあげてもうければよいじゃないかとも思っている。

卒論や修論を書くことで自分の能力向上を目指す気が全くなく、かつ、数十万円ものお金を払うつもりの学生がいるのであれば、大学側も、お金で卒論の単位をあげてしまえば良いのに。ただし、卒業証書には「学士(**、卒論特別免除)」というようにして、一目でわかるようにして。どうせ、社会が卒論をかける程度の能力を求めていないのであれば、かっこよいか悪いかの問題だけで誰も気にしないだろうし。大学も臨時収入があってうれしい。指導教員もやる気のない奴は放っておいてやる気のある奴に力をそそぐことができる。やる気のある学生は教員から指導が受けられる。やる気のない学生は単位をお金で買えてハッピー。

卒論/修論がしんどいのはあなただけじゃない

「よし、自分の能力を上げるためにも卒論/修論をがんばるぞ!」と思っても、しんどいことはしんどい。そのときに、「しんどいのは、自分の能力が足りないからじゃないか?私ってダメな人間なのでは?」と思うときもあると思う。そんなとき、自分だけでなくみんなもあがきつつ卒論/修論に取り組んでいるということがわかれば少し気が楽になるかもしれない。

では、みんなの心の叫びを存分にお楽しみください。