とても素晴らしい。
私の理解するとても重要なポイントは「欠如モデル」というのは「考え方」に対する批判であるということ。専門家が非専門家に知識伝達することを批判したものではない。
「欠如モデル(Deficit model)」とは、一般の人々が科学技術を受容しないことの原因は、科学的知識の欠如にあるとして、専門家が人々に知識を与え続けることで、一般の人々の科学受容や肯定度が上昇するという考え方を指す。
(r_shinehaの日記:「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書より)
ちなみに、上記リンクと同じような話は6月くらいに平川さんもTwitterで行っていた。
ついでにいうと、単に「科学知識の欠如は不安・反対の原因になる(原因は他にもありうるが、科学知識の欠如もその一つ)」という当たり前のことならば、あえて批判対象としての「欠如モデル」とは言いません。批判対象となるのは原因が知識欠如「のみ」だと考える場合です。
つまり、たとえば原発を不安に思い反対するのには知識以外の様々な理由があるのに、それを知識の欠如のみの問題と考え、「正しい知識をご理解ください」と PA(public acceptance)に明け暮れるというパターンが、欠如モデルとして批判されてきたものです。
([人より〜が得意であるということを理由として、それが不得意な人の要求に応じる義務はないで引用した部分から)
続いて、以下の部分も重要。「欠如モデル」というのが「一方向な情報提供そのものの重要性についての否定」ととらえられるような発言を見聞きしたので「あれ?」と私は思っていた。
但し、欠如モデルを巡る議論において一点だけ注意を促しておきたい。欠如モデルを想定したPUS活動、情報提供活動が、一般の人々における「科学技術の受容」にそのままつながらないことを確認してきた。しかし、このことは(多くは一方向にならざるを得ない)情報提供そのものの重要性について否定しているものでは決してないということに、十分の注意が必要である。
(r_shinehaの日記:「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書より)
だけど、以下の部分はちょっと疑問。情報管理・情報提供と意思決定の話がごっちゃになっている。
欠如モデルに対する批判の本来の対象は、「科学技術情報を与えれば、科学技術受容も促進される」という思考であり、それに伴う専門家による中央集権・トップダウン型の情報管理・情報提供への偏りにあったと見ることが妥当である。「欠如モデル」に対する批判の本懐とは、そのような情報流通の体制と考え方に対する批判であり、関係するアクターのネットワークにおいて、一方向・双方向含めたより裾野の広い知識・情報・意見の共有を目指す所にあると言える。
(r_shinehaの日記:「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書より)
情報提供はどうやったって中央集権およびトップダウン型になるだろうから、それが批判対象なのは「?」。非専門家による分散的かつボトムアップ的な情報提供って何?情報管理については、今回の原発事故の教訓からすると管理するべきでないというのが私の結論。仮にパニックが起こって死傷者がでたとしてもしょうがない。管理すること自体が不審を招き、その後に発信する情報の信頼性が損なわれてしまうため。
「関係するアクターのネットワークにおいて、一方向・双方向含めたより裾野の広い知識・情報・意見の共有を目指す所にあると言える。」の「意見の共有」が重要なのだろうと思う。