見知らぬものに出会うとき重要なのは自分の中の基準

領域に依存しない考え方、そして領域を越境するような思考は、自分の拠り所や専門性が完成して、はじめて発揮できるものであると僕は考える。

もちろん、こうした考え方には異論もたくさんあろう。僕はそれを否定しない。上記は僕の「わたしの教育論」であるし、僕が教育を行う際には、そのことを重視する、というだけである。

軸足を大切にしなければならない。そしていったん決めた軸足は安易に動かしてはいけない。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 :プロ領域を持たないゼネラリストが存在しうるか!?より)

どんなに新しい領域に自分が着手しようとも、「軸」になる足だけは決して動かさない。逆に、自由になる反対側の足は、縦横矛盾に「くるり」「くるり」と動かす。研究生活では、その「不動の軸足」「自由奔放な足」が大切なのではないか、ということです。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 :中原ピポットターン理論より)

なるほど、いつも勉強になる。私もちょっと違うレベルで似たような考えを持っている。それは、「新しいものに出会うとき、自分の中に基準がなければその新しいものを自分の中で受け入れることができない」ということ。新しいものに出会ったとき、まずは自分の中にある従来の基準でそれを評価し、その評価の結果によって、それを受け入れたり、拒絶したり、無視したり、場合によっては基準自体の変更を行うというのが私の考え。子供のときには基本的に親に言われたこと(=親の考え方、価値観)が基準となり、それをベースとして他人と付き合い基準を自分のものとしていく。

なので、何か習い事をするときにはまず、誰かの価値観、基準を丸飲みし、その後、いろいろと経験しながらそれを自分用の基準にカスタマイズしていく。研究も一緒、できるならばまずは自分の頭の中に指導教員や尊敬する先輩を存在させて、それをたたき台の基準として見知らぬ問題、見知らぬ実験結果を自分の中に位置づけていくのがよいと思う。