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卒業研究の取り組み方によって卒業研究の難易度を変えるべきか否か

大学

メタ卒業研究と卒業研究で目的と手段をごちゃまぜにしないでのコメントのやりとりをエントリーとして転載。

私の「卒業研究の位置づけは学生ごとに異なるので、卒業研究の位置づけごとに卒業研究の難易度を変えた方が良い」という主張に対して、kwsmさんから以下のコメントをいただいた。

  • 教員はメタ研究の目的を共有するべく強要することと研究の目的を共有するべく議論することをごっちゃにして考えてしまうのでこの二つを区別させるようにしないといけない
  • 研究の位置づけが学生ごとに異なろうが、それは教員の指導意欲とその表出としての態度や方針を学生ごとに異なるものにする理由にはならない

と、私は考えておりますので、教員がメタ研究の目的に踏み込むことは、良いことではないと思います。

区別させる、あるいは区別が必要であることを意識させる、ということには無条件で賛成しますが、区別された目的によって教員側も対応を変える、というのは、形式上は同じ単位を取得するにも関わらず、表には現れない差異を教員が独断で作ることになります。卒業研究の単位取得に異なる意味合いを「教員が」持たせるならば、それは、単位を異種のものにするのが自然です。当然、文部科学省にもそのように申請をするべきです。例えば、4年制の最終年度の単位と6年制の中間研究報告としての単位に分かれているなら、教員が指導方針を変える合理的な理由を持たせられます。

そのような意味で、「卒業研究の位置づけが学生ごとに異なろうが、卒業研究の目的を達成できていなければ等しく卒業させるべきではない」というのは全面的に賛成しますし、「卒業研究の位置づけに応じて適切な研究の目的を定めるべき」というのは、例え起点が良心であっても、おかしいと思います。

それに対する私の返答。

区別された目的によって教員側も対応を変える、というのは、形式上は同じ単位を取得するにも関わらず、表には現れない差異を教員が独断で作ることになります。

なるほど、こういうとらえかたも当然ありますね。

ただ、教員になって5年、自分が卒論生のときからすると10年間卒業研究を見ていますが、「学生の卒業研究に対する望み方によって教員は対応を変えざるを得ない」というのが私の意見です。これは、学生の質がどうこう、教員の質がどうこうというよりも、主に大学の制度と現在の日本の就職慣習に起因していると思っています。

現状において教員も学生も(場合によっては学生の保護者や社会も)最大限に幸せになるという点から考えると、学生側の事情を無視して、一律に卒業研究を課すのはちょっとアレだなぁというのが私の考えです。

それに対するkwsmさんの返答

next49さんの指導方針を批難したいのではなく、next49さんの実感と覚書を受けて、便乗して私の意見を述べてnext49さんの意見を聞きたいと思ってコメントしている、ということを言い訳しておきます。

一律に卒業研究を課すよりも、学生の事情に合わせた方が学生も喜ぶでしょう。

研究室という教員の振る舞いが表に出にくい場で、たとえ建前からは逸脱していても、良心的な教員が学生の意を汲むことによって教員と学生の幸せが最大化されることもあるでしょう。でも、それは銀英伝で言う所の「慈悲深き皇帝による最良の専制政治と衆愚による最悪の民主政治」論ではないでしょうか。

なるほど、next49さんはその任に堪えうるのでしょう(憶測で勝手に言ってますが)しかし、同じように建前を無視した恣意的な運用を野放しにした結果、最悪のハラスメントと最悪の結果も起きているのです。で、あれば、良心的で強大な専制が生む効率的な運用の可能性を犠牲にしてでも、学生も教員も建前どおりに非効率的に研究をすべきなのではないでしょうか。

現状では、ちょっとアレだ、というのは私も実感しています。主に就職慣習に起因している、というのも賛成します。ただ、現状の就職慣習の主な原因の一つは長い時を経て形成された企業側の大学に対する信頼の欠如であること、教員は企業を大学の都合に従わせることは出来なくとも自らが所属する組織の制度を変えることの出来る一票を持つこと(それを持たないなら、なおさら独断での運用が出来る立場ではないはず)を忘れてはいけないよなあ、とも思っています。

それに対する私の返答。

next49さんの指導方針を批難したいのではなく、next49さんの実感と覚書を受けて、便乗して私の意見を述べてnext49さんの意見を聞きたいと思ってコメントしている、ということを言い訳しておきます。

了解です。

でも、それは銀英伝で言う所の「慈悲深き皇帝による最良の専制政治と衆愚による最悪の民主政治」論ではないでしょうか。

うーん。教育の場に民主主義のシステムはうまくハマるんでしょうか?

kwsmさんがおっしゃりたいのは、学生の卒研への取り組み方ごとに教員が指導方針・方法を変えるのは公平でないということだと理解しています。

一方で、学生は能力や性格が一人一人違うものですから、指導方法は学生ごとに変える方が良いというのはkwsmさんも同意していただけると思います。上記に同意していただいたとして、私は、卒研への取り組み方の違いも学生の個性(能力)のうちの一つだと受け止めているので、学生の卒研への取り組み方の違いによって指導方針・方法が異なるのは当たり前だと思っています。

指導方針・方法の自由度が高いならば、当然、学生に対するハラスメントもより容易になるので、それを危惧するのはわかるのですが、じゃあ、自由度を下げたらどうなるかというと誰にでもどんな状況に対しても同じ指導方針・方法になるので、これは非効率というよりも逆にハラスメントの種になると思います。

ここまで書いてきて気づいたのですが、指導方針・指導方法の違いによって「同じ講義を受けているのに単位の意味づけが異なってしまう」という話と指導方針・方法を学生ごとに異ならせる権限を教員が持つことにより「教員によるハラスメントが発生する可能性が高くなる」という話は別個の話ですね。

kwsmさんの最初のコメントの同じ講義を受けているのに単位の意味づけが異なってしまうので学生の卒研への取り組み方によって講義科目を変えるべきというのは先に返事させていただいたときには暴論に思えましたが、今は案外アリかなと思います。ただし、本当に実施するとしたら小手先の変更、すなわち「卒業研究A(就職者用)」と「卒業研究B(大学院進学者用)」に名目だけ分けるだけになると思いますが。

二つ目のコメントの教員によるハラスメントが発生する可能性が高くなるという話は難しいですね。指導方針・方法を学生によって異ならせることがハラスメントの発生を高くする可能性があるというのは私も同意するのですが、じゃあ、どうすればよいのか。うーーん。

答えがでていませんがここまで。